2009年9月30日水曜日

NAKAMURABRAWN


先日飯田創造館で表装画展があった。久しぶりに見たこの展覧会、かつてのちょっとカビっぽい書画骨董的展示がとても明るくなってアートな感じ、好印象。

さて、その中に中村壁の土を使って額をつくりそこに遺墨が飾られた作品があった。あの独特な色が味わい深く遺墨とマッチしていたと思う。昨年 僕の行きつけの床屋さんが新築に際し玄関の壁を中村壁で仕上げたと言ってくれた。見せていただいたがとてもシックで、うれしかった。こんなふうにあの中村壁が 現代に復権してくれると感慨深い。みすず設計の松下氏もいろいろと再生に取り組んでくれていて心強い。(喫茶店 五反田、瑠璃寺など。) 左官の勝野氏、南信州新聞の村澤氏とともに幻の中村壁を探して研究したあのころのことを懐かしんでしまう。

2009年9月21日月曜日

稲刈り


ここ数年 一年間の絵の制作のペースを 稲の生育にあわせて秋に成果が上がるようにやってきている。すなわち 稲が米になるころ自分の絵も個展を開けるとか何らかのテーマの終結ができるように心がけてきた。しかしどうも今年は苦しい。11月23日からは銀座のるたんで個展を予定している。切羽詰ってきた感じだ。


秋晴れが続いてやっぱり稲刈りシーズンだ。山里のここではどの田んぼでも人々が忙しく でものどかに働いている。すがすがしい気分になってくる自分に気付く。 ロレンツエッテェイの壁画“よき政治と悪しき政治”の中の幸せに働く農民たちのようだ。山間地の農業は問題だらけなのに・・そしてわたしもその風景に中に入って汗を流す。


時間に追いかけられる意識が和らいだのはとても救いだった。

2009年9月12日土曜日

確かなものって・・


TVで大リーグのイチローのはなしを聞いた。この偉大な野球選手は“バッティングで確かなものってないんです。だからフォームは常に変わっていくんだ”というようなことを言っていた。ほんとにそうだなーと改めて思う。自分が大切にしているものは特にデリケートで変わりやすいと思うから。絵について考えると/いいなと思う絵はほんとにいつもいいのだろうか?確かにピカソだから?バスキアだから?でもいいなと思うのはその時の出来事。その絵はそこに同じにあるのに見るたびにビビッと来るんだろうか?・・否何も感じないときだってある。自分の何処かがOFFのときは空間が広がらない。すると、絵が変わるんじゃなくて、自分が変わっているんだ。スルッと自分が変わっているのに気がつかないでいると思う。描くときも 同じような形で同じ問題に立ち向かっても、以前と同じに描けない。“同じ”を意識したりするとトーンダウンすることが多い。形のない大事な“なにか”をとらえるのはほんとに難しい。

2009年9月7日月曜日

秋の入り口


百日紅の花はもうとっくに咲いている。否もう終わりのころだ。稲穂は頭をたれ、早い田んぼはもう稲刈りが始まっている。近くのりんご畑を見れば枝もたわわに実が生っている。驚いたことに手で握れば指が届いてしまうほどの細い幹にグレープフルーツほどの大きさ(もう立派なりんごの大きさをいいたいんだけど)の実が50個以上付いているんだ。なんかかわいそうだよ。・・・どうも私が不機嫌なのは秋になるのを認めたくない一心からだ。わかっている。

でも、朝早く(もうかなり暗くなってしまっているが)外に出てみると とっても気持ちいい風が私を元気づけてくれる。夏の間は何にも頭が回らなかったのに、なんか詩人にでもなったようだ。こんな勇気が出てくれると“それでも秋を受け入れようか”と鷹揚になってくる。やっぱやるしかないのか・・・

あー!いそがしい秋、おいしいものを食べて 立ち向かいますか。

2009年9月1日火曜日

ソマリア



私が、ペルージアにいたころ泰司君という友人がいて毎夜BAR(日本のBARとは違いスターバックスカフェみたいなところで酒も飲めた)に通っていた。さして金が有ったわけでもないので、酒の質も量も知れていたと思う。そこでの彼の親しい友人にソマリア人のアハメッドというのがいた。一般にソマリア人は背が高く手足も長い。気質もやさしくおっとりした感じと思う。その彼はあまり背は高くなかった、といっても、私たちよりやや高かったか。本来回教徒であったと思うが、長い海外の暮らしでアル中のような感じだった。泰司君は『本国ではいいとこの子弟なんだろうになー』と嘆くというわけでもないがいっていた。ある日アハメッドがけんかで怪我をして入院したと聞いて私たちは急いで見舞いに行った。どうもけんかというより巻き添えで突き飛ばされて窓に手をついたらしい。そのガラスが割れて手を怪我したようだ。彼はもつれたような物言いで血がいっぱい出たんだと言った。そして、そばにいた泰司君の横っ腹あたりをさすって肝臓気をつけろとも行った。


それから暫くして かれは長いイタリアの暮らしにピリオドを打って母国に帰っていった。泰司君は『帰ったら軍隊に入るらしいが、きっとやっていけねーだろうな。』というようなことをいっていた。


その後 『もう死んじゃったかもしれないなー』と泰司君が冗談半分にいうのを聞いた。・・・


そしてその泰司君も7年前に肝臓で(アルコールによる)逝ってしまった。二人とも争いごとを好まない
やさしい、寂しがりやの人だった。


ソマリアの惨状のニュースを耳にするたびに、『血がいっぱい出たんだ!』と言ったアハメッドを思い出す。