2009年12月29日火曜日

風景画を描く


久しぶりに朝日にあたりながら風景画を描いた。何年もこんなことはしたことがなかった。手塚君と冬休み中に描きに行こうと前に(たぶん話の勢いで)決めていたのだ。二十歳のころ彼とウイスキーのビン一本抱えて三浦半島の岬の先にスケッチに行った時のことを思い出しながら 『よし、また行こう!』と合意したのだが 始めてみるとなかなか思うように絵が描けない。だいいちヴュウポイントが定まらない。人目に触れるようなところでは落ち着かないし日陰では寒すぎる。その点手塚君は描き慣れているのか 割と早くに場所を決めたようだ。わたしはなんとなくその近くに陣取った。小一時間ほど山間の風景を水彩で描いた。そして程なく集中力が切れた。なんか散漫なままだ!

手塚君はまだまだやるぞ といったオーラを出しているので わたしは仕方なく散歩に切り替えてしまった。彼は風景画がすきだ、と感心しながら・・・

2009年12月24日木曜日

縄文の人々




縄文の人たちはどんな暮らしをしていたんだろう。土器の模様を見ているとわくわくするような不思議感に包まれる。同時に恐怖感もある。いったい何なんだろうこの引き込まれる感じは・・・
わたしたちの祖先なんだろうけれど異なった世界だ。まず力強いし、自由で奔放、でも軽くない。呪術的な暗さも感じる。
この写真を古新聞の中から見つけた。女性の土偶のほうははじめて見る写真だ。おなかの感じがなんとも魅力的に思う。
またヘアースタイルはとても現代的だ。
私たちの血にこのエネルギーは流れているはずだ、と思いつつ か細くなった生きる力を考えてしまう。

2009年12月19日土曜日

手塚俊尚日本画展開催中


手塚氏の風景画の個展が飯田市上郷のアートハウスで行われている。
"伊那谷の風景Ⅱ”と題されたその展覧会は 規模は小さいがしみじみとした伊那谷の景色が展開していてうつくしい。彼と私は高校時代からの親しい友だ。ともに美術クラブに籍を置いていた。そのころ彼は芥川の言葉として『日常の些事を愛せ』という一節をさかんに話していた。
十代の私にはその二段構え的な考えにどうもなじめなかったが、30年のときを経て彼の絵を見ていてその言葉の持つ奥行きをなんとなく理解したような気がした。身近な風景に詩情があふれている。

2009年12月6日日曜日

Y先生と平山郁夫


右の絵は私の二十歳のころの自画像でY先生の自画像に感化を受けて描いたものだ。その先生の絵はとても深くて 青春の希望に満ちた甘味さと同時に将来に対する不安なのか暗さのあるとても素晴らしい絵だった。やはり二十歳の自画像だ。高校を卒業してからT君と先生の家を訪ねたときその絵を見たのだ。しばらく私たち二人は感動で言葉を失った。Y先生は私たちの高校時代に教わった美術の先生で実に不思議な人だった。無口で物静か 必要な会話は早口でぼそぼそとしゃべる、目を見て話はしない。何かに怒っている様でもあった。美術研究室はいつも僕らがうろうろしていたから、いつも階下の生物研究室に身を寄せていた。先生の絵らしい絵と言えば、研究室の机の上にあった小さなスケッチブックのつつじの花のデッサンぐらいだった。

ただ、Y先生は芸大で平山郁夫と同級生だと言うことは噂でみな知っていた。しかしあの自画像を見て私たちはただならぬ才能を知った。きっと同級の平山郁夫もそのすごさを知ったことだろう。

あのころ先生は47~8歳 平山郁夫は芸大の教授で飛ぶ鳥を落とす勢いだっただろう。今思えば、Y先生の焦燥はなんとなくせん越ながら想像できる。つつじのデッサンだけでなく もっと作品に取り組みたかっただろう。

先日平山郁夫が亡くなった。評価はいろいろだ。激動の60年代から仏教を中心に平和をテーマに描いている。退屈だと思う人もいるかもしれない。しかしアカデミックな生き方としてはこういうものかもしれない。

Y先生は昨年夏故郷の茅野市で個展を開かれた。私はお元気な先生にお会いできたことを喜んだが、

それ以上にうれしかったのは、例の二十歳の自画像を見ることができたことだ。先生は60年も前の作品を大事に額に入れて保存していられるのだ。素晴らしい絵であることは今も同じだ。