2010年10月31日日曜日

contemporary


コンテンポラリーアートという名称の展覧会はいま比較的よく聞く。現代性に重きをおいた展覧会だ。しかし なかなか訴えてくる作品に出会えないと思うのは私だけだろうか。

なぜなんだろう?表現の新しさを求めた作品もそんなに真新しさを感じない。どこかでみたなーと感じてしまうか それがどうしたの?と思わず口にしてしまう。

1960年代から70年代のコンテンポラリーアートの持つ熱、緊張感、創造性、そして怖さ、明日をも知れぬ向こう見ずさ、そんなすべてが今のコンテンポラリーアートに欠けている。ほとんど抜け殻だ。

私も身を置くこの世界がそんなんでいい訳がないが、現実はジリ貧状態。

作品に取り組む人たちの多くがもういい年だ。当然明日をも知れぬ無謀な挑戦する作品を発表できるわけがない。

私の好きなイタリア人作家のアルベルト ブッリ 彼はあの熱い時代に無数の素晴らしい作品を次から次へとつくった。そしてパタッと止めた。後は人とも合わなかったようだ。私はイタリアにいたころ 彼に会いたいと願っていたがかなわなかった。

かれのあの創造性 緊張感 エネルギーを考えると 何年も続けることができなかったのかもしれない。

もしかするとコンテンポラリーアートは すでにもう終わっているのかもしれない。・・・
次に来たのが アニメアート? いやいやそれではいけないと思う。


さて 話し替わって 先日今村由男氏のアトリエがオープンした。南アルプスを一望できるすばらしい工房だ。自分の作品を売って家族を養うだけでなく こんな立派なアトリエまで建てられるんだから すごい!写真は彼のスペイン時代のものだそうだ。

2010年10月23日土曜日

2010-米


脱穀もやっと終わり今年の米作りもまず終わりと思われる。拍手!

今年は多難であった。春 桃の花が咲くころ雪が降った。籾蒔き後の小さな苗には大きなダメージで、いくつかの苗はだめになってしまった。しかたなく田植え時に足りない分を農協から買った。しばらくは天候不順だったが、とつぜん高熱の夏が続いた。取り入れのころも暑さにまいったが、なんとか家族総出でやり終えた。実りきらない米が多かったと父は言っていた。確かに臼挽き後の米は小さいし緑っぽいのやら、白っぽいのやらが混ざっていた。

最後にオチまで付いた。臼挽きを知り合いの方にお願いして挽いてもらったのだが、手違いで なんとうるち米ともち米がブレンドされてしまったのだ。6対1ぐらいの見事なブレンドのためどうすることもできない・・・一年間この米を食べるのかと母は嘆いた。

早速食べてみた。いつもならみんな幸福そうに食べる新米なのに 怪訝顔だった。わたしはそんなに気にならなかったのだが・・・小6娘はもちが好きなのでひとり明るかった。

翌朝 炊飯器の中をみると残りご飯の一部が団子のようになっていた。どうして?

どうも娘が 夕べそっと“ミニひとり餅つき”をやったようだ。

2010年10月10日日曜日

金木犀



秋は来ているのに 暑い、と思う。稲刈りをナントカ終えて多忙な秋を乗り切らなくては。



さて次々と届く展覧会の案内状。横着を決め込んでほとんど顔を出さない。・・・ところが実はそうも行かないのだ。お世話になった方の会や次の発表に繋がる会にはさすがに出かけぬわけには行かない。



作品作りは切迫した思いでやる。11月にはCAF.ネビュラ展が始まるのだ。



農事、これも恥ずかしながら年老いた父に促されながらなんとかやる。これからは脱穀という作業に丸2日はかかるだろう。それ前に晴天が続かないと稲が乾かない。天気予報を横目で見ながら。



もっと秋を楽しまなくてどうするのだ、と自分を落ち着かせる。多少 頭に血が上っているせいかむやみに暑く感じるのかな。金木犀の香りを鼻の奥まで吸い込む。ツーんとする。沈静・・・・?

2010年10月3日日曜日

Gallery 風




赤津氏企画の『私の愛するアーチスト展』が銀座のギャラリー風で始まった。オープニングには多くの人に来て頂 たいへん盛り上がった。グループによる展示はお互い知っている同士でやる場合と、知らない方々とやる場合があるが、今回はほとんど知らない方々ばかり。


ふだんあまり接することのない分野の作家さんたちと知り合いになってお話ができるのは緊張もするが、楽しいし 意義深い。たとえば久住敏之氏、わたしは初めてお会いしたのであるが昨年のるたんでの個展に来ていただいていたようで私の絵を知っていてくれた。すぐに打ち解けた話ができてうれしかった。


彼の絵は目鼻立ちのはっきりした男女を描いたもので昔のテンペラ画のような印象を受けた。(実際は油彩) バックには海があり波打ち際が侵食された半島らしき風景が見える。どこか デキリコの形而上派のような空気がた漂っている。いつもならここから先にはあまり入っていけない。しかし昨日は同じ出品者に『男の人と女の人の鼻の形が同じだけれど なぜ?』と聞かれ 彼は隠れキリシタンをテーマに描いていて写実的な描法ではなく頭の中のイメージを表そうとしていることを説明してくれた。画面全体でそのキリシタンのストーリーを象徴しようとしているのだ。そのあたりの知識がなく漠然と人物画と捉えると部分の違和感に注意が行ってしまい、作者の意図を感じ取れないことになるのかもしれない。




絵はホントにいろいろなスタイルがある。作家の生き方が違えば方法論も違ってくる。当然現れてくる表現も違う。見る側も同様。


ただ共通しうるのは 今われわれは同じ時間に生きているということだ。その分母で割って公約数が出てくるか?感性がそれを導き出してくれるのか?・・・


わかる絵もあれば わからない絵もある ということは当然かもしれない。