2011年3月21日月曜日

原発事故


突然の電話で妻は答えるすべを失ったようだ。イタリアの懐かしい友が日本の地震や原発事故を心配して電話をくれたのだ。何年ぶりに声を聞くんだろう・・受話器を取って話すうちに声が上ずってきた。震源地から離れているので幸い被害がなかったことを伝えた。しかし原発事故はかなり危険であるとあちらでは報道されているようでたいへん心配してくれた。このごろは具体的に自衛隊や消防が手を打ってくれていて放射能の値も小康状態であると報道されているので少し心配も薄れたが、電話をもらったころの日本のテレビは実態がよく伝わってこなかった。ほんとはヨーロッパの報道のようにヤバイのかと思ってしまった。

かれは『ほんとに危なくなったら家族を連れて俺のところへ逃げて来い!』と言ってくれた。うれしかったが リビア人が国を逃れて地中海を渡る様子を連想させて 少し苦笑した。

最後に 同い年の彼に聞いてみた。『髪の毛は 何本残っている?』『すこし』と答えた彼の声の近くで妻のルチアの笑い声が聞こえた。

また会いたいなーと思わずにはいられなかった。
(写真は電話の友人と二人展をやったときのポスターでなつかしい。となりのポスターはユーロコムニズムらしきもので時代を感じる。)

2011年3月13日日曜日

津波


3月11日はまた記憶に残る日となった。私のところでは 静かでゆっくりした揺れが長く続いた。わりと大きな揺れで不気味だったが。
しかし、会社にいた私にはそれ以上のことは知らなかった。帰りの車の中でラジオをつけると ことの異常さがすぐに伝わってきた。10メートルを越える津波が東北地方を襲っていると言う。・・・

急いで帰ってテレビを見ればそこは海があらゆる物を飲み込む物凄い世界だった。ごみのように流される家々、その一つ一つに尊い人生があるというのに・・・そんな感情さえうかばせないような事実の連続、それをテレビで見ると言う不思議な感覚。

いくつもの町や市が飲み込まれてしまったという。ひとりひとりの思いや悲しみを想像すると、どうやって復興という精神状態に結び付けていくのか、気が遠くなってしまう。あまりにも大きな心のエネルギーが要る。・・・立ち向かう逞しいひとびとはきっと大勢いるだろう。それを祈る。

2011年3月8日火曜日

現代の創造展


飯田下伊那をホームにした作家の展覧会『現代の創造展』がこの6日で終了した。約130人の出展で書道から日本画、洋画、彫刻、工芸と広いジャンルの展覧会だ。このところ実行委員ということで開催にかかわっているが なかなか難しい展覧会だ。作品を創るという基本は共通しているはずだろうが、ジャンル 個人 で考え方がかなり異なっている。だから、ちょっと掘り下げた話し合いになると まとまりはしないし、それがわかっている人たちは意見を闘わすこともない。差し障りないレベルで事が決まっていく。当然形だけが残っていく。いいんだろうか?と思いつつ・・・人選についても然り。

昨年何人かの方々が この流れを嫌って辞められた。私はこれだけ大きな展覧会がなくなってしまうのは残念に思うのでその中に残っているのだが、具体的にどんな方向に持っていくべきかよくわからない。

みんなはどんな捉えかたをしてるんだろうか・・・