2012年12月22日土曜日

アートツレヅレ

突然ながら、アートはなぜあるのだろう?
自分をわかってもらいたい、という渇望あるから・・・?
自分が理解されていないというストレスから・・・?
では、自分は誰から理解されたいの・・・?社会?家族?
叱られて涙で足元に落書きしたら本物そっくりのねずみの絵になったという話あったなー。
あれってまさにアートだろう。
孤独の隣にアートはあるんだ。きっと。
その裸の心が真ん中にあって それが外に出て行こうとする(誰かに向かっていく)のがアートに違いない。
さて、その心だが 美術史的に考えて [裸の心の痛み]はゴッホ辺りからずっとわたしたちの痛みかなとかんじている。何らかのグループの中で生きている私たちは同時にそこからの自由も求めずにはいられなくなった。そこでグループから出る、すなわち『孤独』・・・
社会は豊かさを求めて急激に発展していったが、窮屈にもなっていき 社会からも脱落する人が出始める。はじかれて貧困、そして孤独となっていく。
その社会の価値観も 戦争や 環境破壊に行き着き その“豊かさ”に疑問符が着き始めた。
完璧を誇ろうとしていたヨーロッパ近代文明のほころびだ。宗教から独立し科学が人々を豊かにするという近代文明にバツを付け出したのが 現代アートの骨なのだ。アフリカやアジアの素の文化に注目が行くようになるのもその一例といえる。ここの辺りの方向性は 今のアートの共通項といえそうだ。
私たち周辺のアートはどうなっているだろうか?
美しい景色の絵には 穏やかさ 自然の豊かさはある、しかしそれはあなたの今生きている偽らざる心なのだろうか?あえてそんな穏やかな心に自分をもって行って描いているんじゃないのか、と。その趣味のいい穏やかさがほんとの言いたいことなのか?裸の心なのか?・・・見る側も そこの安心感しか求めていない気がする。もっと多くの心を理解してほしい。
 現代美術家はそれにどんどん視点を増やしていった。(保守的な絵描きは未だ例の穏やかさしかテーマにしていないが)いろいろな角度で現代の問題を提起し裸の心を伝えようとしている。アンテナさえ張っていれば どこかで自分だけが感じる強い共鳴があるはずだ。感じるものはあるんだ。
自分の生きている今にもっと意識をもっていこう。生きる糸口をみつめよう。
 
 

2012年12月1日土曜日

個展終了

るたんでの個展が無事終了いたしました。おおくの方に概ねよい評価をいただき一息ついているところです。何度か書いた話ですが、見ず知らずの人に私の絵の前で 突然微笑みかけられ一機に旧知の友人のように深い話が出来るのは 個展ならでの喜びです。今回も何人かの方とそんな話が出来たことはたいへん嬉しかった思い出です。また、3年前にそんな出会いをした方から私の発表を待っていましたと言ってもらい これもまた喜び一入でした。
さて、この期間中私は念願の旧友の墓参りをすることが出来、心のおちつきを持てた気になっております。ふしぎ・・・。
彼はペルージア時代の画家志望仲間で 帰国後時々会っては酒をのみイタリアを懐かしんだものでした。10年前深酒がたたったのか、突然この世に別れを告げてしまいました。
お墓は千葉県の成田近くで疎遠を悔いていたのですが、6年ぶりに墓に赤ワインをかけてきました。白っぽい花崗岩の墓が赤いワインで染まるとなんか痛々しく思えて 途中でやめてしまいましたが。私鉄のその駅は両隣の駅が新興住宅地で賑やかなのに対し山がせまっていて 昔の北鎌倉のような風情があります。 この墓参りを嫌ではない理由のひとつかもしれません。心が落ち着ける時間でした。合掌。

2012年11月11日日曜日

画廊るたん

今年の私のメインイベントがいよいよ来週からと迫ってしまった。作品は大きいものが4点、あと中小合わせて5~6点と ブルガリアの若いアーチストの小品数点併設の予定だ。今日辺りに作品に手を入れることはきわめて慎重にしなくてはいけない。何気なく筆を出し全体を壊してしまうことも私にはよくあるのだ。
ともあれ 今回は3.11以降の作品からワントーン転換した自分の制作姿勢をどう理解していただけるか?また私自身がどう思って生きていこうとしてるか?を問う展覧会と考える。・・・
多くの方々に来て見ていただきたいし、言葉をかけてもらいたい。ブルガリアのギオルギ氏からも励ましのメールを昨日いただいた。去年の冬を思い出しながら 頑張ろうと深呼吸をする。

2012年11月4日日曜日

CAF.N

上野の都美術館のリニューアルと六本木の新美術館オープンに伴い団体展の引越しやら 一時ストップやらとここ2~3年は東京の大きな展覧会の腰が落ち着かなかったように見受けられた。私の参加しているCAF.N展も今度埼玉近代美術館が建て替えとなり2年ほど会場が仙台へと移るという。輸送がきついな~・・。
さて、明日は浦和まで旧館最後の展示に出かけなければならない。宅配で済ます作家さんが多いようだがなかなかその勇気はない。自分で運んで自分で梱包を解かないと心配でならない。それに展示作業を皆と分かち合うのもたのしいものなのだ。

2012年10月20日土曜日

Message from Sofia


ヨーロッパの日本人アーティスト

Masahiko Hayashi – the European Japanese Artist

When starting to think on this critical issue for me became more and more clear – Masahiko Hayashi is Japanese as well European artist.
Then I proved both of the possible Formula: Japanese European Artist or European Japanese Artist?!…

My experience as Gallery owner, curator, organizer of exhibitions and projects, and last but not least – as a Collector of Contemporary International Art is spanned in a time of 25 years art activities. Beginning with Contemporary Bulgarian Artists I succeed to gain international attention and nowadays in the projects and exhibitions of Lessedra take part hundreds of artists from all over the world.

In 2001-2002 we had our first cooperation with Japanese artists organizing exhibitions here in Bulgaria as well in Japan with Japan Print Association and my first visit in Japan was in 2003. My contacts have been mainly with Printmakers, but I saw a lot of exhibitions in many cities and galleries.
By my third visit in 2008 in the region of Nagoya/Nagano we went with my friends to a museum where I have been impressed by very European looking paintings large scale. At first sight I thought this is European (may be Italian) artist. The spirit of Arte Povera spout out from the works and I felt it also in the air around us. This was One Man show of Masahiko Hayashi. I have not met the artist, but I left information in the guest book with my admiration for his art.
After 3 years when starting a new project – International Painting and Mixed Media Competition I reminded my Japanese friends about Masahiko with a kind request to invite him to send works. For my good surprise he sent 3 small size paintings according to the regulations 15 x 15 cm. The next surprise for me made the international jury composed by (5) professors and artists from Bulgaria, Israel and Turkey – Masahiko Hayashi won the First Prize, selected among 297 artists from 53 countries!
The Spirit of Arte Povera is reinvigorated in the paintings by Masahiko not only on a different, Japanese way, but on a personal way of thinking when the artist is using also material (earth clay) from the place where he is living. This original style is avoiding that modernity can erase our sense of memory with all signs of the past which we are bringing with us from the childhood during our life.
Masahiko Hayashi is seeking and succeeding to find the contrast between old and new in order to complicate our sense of the effects of the past time.
The Insignificant is coming into being Art.
Physical presence and behavior of the artist is the most significant for the art of Masahiko Hayashi – as a prove for the strength of Art as an act of responsibility!


Georgi Kolev
Owner & Director
Lessedra Gallery & Contemporary Art Projects

Sofia, June 2012

2012年10月14日日曜日

牛の角

このところ勘違いしていた?。自分の中のニヒリズム的なものを仕舞い込んだまま絵に向かっていたような気がしている。・・・
それは非社会的で出し方はとても要注意事項だ。でもしっかりと自分の中にはあることは知っているはず。そこを押さえ込んだままの暮らすのは辛いだろうが出せば出したで周りとの折り合いが難しい。
一番最近では 春の南無の展覧会で そのときは無意識だったが出した気がする。小品をかなり自分勝手に攻撃的にさえ感じられるように作り上げたが 不評だった。見事に一枚も売れなかったのだ。また、来てくれた地元の人々は 柔和な人が多かったからやっぱりあの毒はダメだろう。
それからそこの部分を無意識に仕舞い込んでしまった。
いま 個展を控えて 自分のごまかしが炙り出されているといえる。自分のニヒリズム的なものをもっと見詰めよう。角をとって牛を殺してはならないのだ。

2012年10月8日月曜日

今秋の予定

わたしの秋は農作業やら展覧会やらほんとに多忙な季節で なかなかゆったりとした時を過ごすことができない。というか『~しなければならない』という観念に追われてばかりで気持ちにゆとりが全くないのだ。そのくせそのくせ仕事場のソファーでひっくり返って時を無為に過ごしている。・・・ああ
 今期の展覧会をここに記すことにしました。
1)新耀展  巡回長野展
      10/23(火)~25(木)   ホクト文化ホール1Fギャラリー
2)CAF.N展
      11/6(火)~18(日)   埼玉近代美術館
3)個展
      11/19(月)~24(土)  東京銀座 画廊るたん
 昨日は米の臼挽きが半分終わり 少し気持ちが楽になったのが嬉しかった。絵はなかなか『これでよし』という心境になれないので 農作業の方で開放感を味わった形である。もう一ヶ月間がんばろうではないか!

2012年9月30日日曜日

78年の夏

台風17号接近のニュースのせいか この地区の田んぼは一斉に脱穀作業が始まった。夕方 私は後ろ髪をひかれながら映画館へと向かった。例の『帰らざる日々』を見るために。
30年以上も前に見た映画だからずいぶん印象が変わっていた。キャスティングが豪華だったのにも驚いた。朝丘雪路の飯田弁には感動したはずなのに今回ぜんぜんだった。
 せつなさが何ともいえない青春映画だったが 『八月の濡れた砂』にも共通する荒っぽい感じは 以前は好きだったのに今回少し気になった。時の流れか、私が歳なのか・・・ でもその分インパクトは強いなー。
なにより思ったのは 飯田のパワーの減退だ。私は知らなかったのだが78年に飯田で全面ロケをしたようだ。飯田の夏祭りのようすや当時の高校生たちの感じがとてもエネルギッシュで今は悲し!といわざるを得ない。また今飯田美博館のところにあった長姫高校の旧校舎も出てきて街の変わりように驚かざるを得なかった。映画の後その長姫高校出身の脚本家中岡氏のトークショウで高校が撮影に非協力的であったと冗談交じりに語ったいた。ずいぶん腹が立っていたんだろうな。
私よりも一つ下のこの作者は とても柔和な感じの人で 映画の主人公永島敏行とはイメージがかなり異なっていた。そしてこの原作を書いたころの話はとても繊細で 人の心のありようを大切にする方のようであった。
あの時代を思い出した興奮のひと時であった。

2012年9月29日土曜日

個展の用意

八重洲のT-box画廊のかたの話として『いけばなは 表現の感性がいいね、という評価だけで何を表現しているかの問いが希薄だ』というエッセイを読んだ。生け花については門外漢のわたしだが 今なんとなく絵について考えていることと共通していて気になる言葉だった。確かにみずみずしい感覚の作品に出会った時は感動する。がそれが“点”でなく“線”として作品を見ることは少ない。感覚的作品たちがその底辺でつながっていってその主張が自分のいきかたとかに共鳴したらそれはもう感動以外何者でもない。すなわち感性の表現が瞬間突風ではなくて おおきなうねりの中の一具体例のようなものであってほしいのだ。個展を11月に控えて絵たちの一つ裏側にある『真実』が言えているのか実は踏ん張りどころの私なのだ。

2012年9月17日月曜日

やっと秋 芸術の秋

展覧会に於いて 見て感想が出てこない絵がある。その理由の一つはプロの作家としての覚悟が足りないからだと思うことがある。発表に習作を出されても困る。見る側はその作品の主張を感じようとしているのだから 言いたいことはさて置いてこんなに上手くかけましたよ、なんて言われても困るんだ。そういう意味で絵画教室の発表会的なうちわな展覧会になってしまう展覧会はつまらない。
何をいいたいのかの問いはプロとしての覚悟がいる。一人の人間として生きてきた また生きていく姿勢が見る側の人の究極的な見たいところなのだから。その本質的構造は過酷だが逃げようがない。
私も覚悟があるとは言いがたい甘ちゃんであるが 絵画教室的発表に疑問を持つこともなく活動しお弟子さんを指導している作家さんが多いのは 感心しない。どんなに偉いか知らないがいい大人に指導など出来るわけがないではないか。その辺が日本の文化の中に流れる [先生]と[生徒]の関係で 怪しく感じてしまうところである。生徒側も従順を装い師を敬う光景は悲しいし 大事なこと(生きる姿勢を決めるような)の判断を師に任せるという無責任さはいけない事だ。
多くの人が絵を描き絵に親しんでもらいたいと望むが その入り口辺りに魑魅魍魎が跋扈している。所謂いい生徒ではいい絵はかけないのだ。

2012年9月11日火曜日

帰らざる日々

浪人時代のことである。飯田O校出身の人がこの頃映画を作ったらしい、という噂を聞いた。美術研究所通いもだんだんやさぐれてきたころだったから 自分にはとても遠い世界のようで でもなんかちょっと血が騒ぐ感じがあったのを思い出す。たぶんの同い年の人の活躍だから・・。その映画を見たいと思いつつ数年たってしまったが ある時偶然見ることが出来た。藤田敏八監督の映画であった。『八月の濡れた砂』以来ファンだったので見てみると中身は飯田を舞台にした青春の日々の映画であった。そうか、あの映画だったのか!そして脚本がその人だったのか。母親役の朝丘雪路の飯田弁が地方出身者という訳もわからぬコンプレックスを抱え込んでいた当時の私の体をほっと柔らかくしたものだ。切ない映画で好きになった。
先日その映画と脚本家が飯田に来るという新聞記事を見た。早速行って見ようと決めた。

2012年8月19日日曜日

高校時代からの友人のお母さんが過日亡くなられた。あいにくお葬式には出られなかったので 友人Tとともにお線香をあげに彼の家を訪ねた。道すがら高三のころの話になった。文化祭の盛り上がりの勢いで美術班の数人が5キロほどの道を歩いて彼の家におしかけたのだった。もう暗くなっていたから9時ころではなかったろうか。彼の家の二階に上がりこみ大騒ぎをしたのだ。しかも、一升瓶を友に 女の子もいたと言う。  私はなぜかこの記憶はつい最近まで鮮明ではなかった。たぶん酒に酔ってしまって寝ていたのかもしれない。しかしTはここ十年くらいこの話を時折するので少しずつ思い出して苦笑してしまう。翌日二日酔いの頭を抱えながら彼の家の後方にある大きな谷を眺めていた自分がたしか将来に対する過信と不安のただ中にいたなと思い出した。
彼の家は そういえばあのころのままの大きな二階家で 改めて若気の至りを恐縮した。大きな家はガランとしていて仏壇だけがお母さんの葬式を雰囲気を伝えていた。ここ五年ほどは彼が農業をしながら介護をしていたようでそれからの開放と空虚感がいまの友の姿のようだった。座敷の隣にはもう一つ机がありそこには受験の参考書が積まれてあった。『息子が大学受験なんだ』と言っていた。そうか、あんな馬鹿をやっていたころに息子たちはもうなっているんだ。それにしても今の息子たちがあんなにでたらめでなくて良かったな、と思わず言ってしまった。

2012年8月12日日曜日

アグリッパ

ローマ皇帝アウグストスの副官アグリッパはわれわれにはデッサン用の石膏像として有名であった。中学の美術室にはたいがい備え付けられていたのではないだろうか。紀元前50年ころから300年間(パックスロマーナ)の平和の時代人々は現実主義を生きていたという。たしかにアグリッパの像は写実以外のなんの興味もなさそうで、意志の強そうな軍人の顔つきの表現が爽快だ。また2000年を経たわれわれがその表現を理解できるのも 変な気がする。
そしてその同時代に イスラエルではユダヤ教の中からキリスト教が生まれひたひたとローマに浸透していった。そのころの心を表現した何かに出会いたいと思ったが不勉強なせいかまだない。とここまで書いて 新約聖書がそれそのものではないかという気がした。パオロの手紙とか読んでみよう・・・ちと難しいかな 私には。
アグリッパをわれわれがデッサンした若いころ 目的は物の現実的把握 客観的なものの見方のためであった。その訓練が毎日毎日のデッサンであった。では、その対極にある精神性 または宗教性は何によって高められるのだろうか、前のページでも書いたが ビザンチンを経てロマネスクに至ったキリスト教の壁画にはとても不思議な平和(精神性の高み)がある。パックスロマーナから数百年の所謂暗黒の時代がなにをどうしたのか?

2012年7月28日土曜日

ビザンチンの美術(ロマネスク)

このごろローマ史の本を読んでいてますます惹かれるのが東ローマ帝国のころの美術だ。それも当時としては片田舎の教会の壁画がなんとも優しく 今の世知辛い時代に対しその世界観が魅力的だとおもうのだ。中学生のいじめとか 放射性廃棄物の問題とか もっと卑近なところではものづくりを謳いあげる中小企業の欺瞞さとか(私の働く環境だけではないはず) それに連日の猛暑・・先が暗く うんざりである。
それにひきかえこのキリストは厳しくもあるがなんとおおらかだろうか。あの時代ゲルマン民族大移動で西ローマは滅びながらその裏ではキリスト教が浸透して行ったのだ。ひとびとを救っていった力がここにあるんだろうか?この絵はアーチスト個人の魅力では全くなくその時代の大きな救いの価値観のようなものが私たちをひきつけるのではないだろうか。
どこかの新聞の写真だったとおもうが 調べて実物を見に行きたいな、とちょっとした希望を持つ今日この頃。

2012年7月7日土曜日

arte povera

秋に銀座の画廊るたんで個展を計画中なのだがそのためのパンフレットの原稿がブルガリアから届いた。レッセドラ画廊のギオルギ氏からのものだ。彼が数年前の来日の折 治部坂のミュー自然館で私の個展を見て感動した事を綴ってくれた。1960年代後半にイタリアで提唱され一つのムーブメントとなったArte Poveraの流れとして私の絵を捉えてくれたのだ。 強烈な色彩の絵の具を使って作り上げようとする表現に不自然さや違和感があったわたしには土を使って絵を描くことはさしてアヴァンギャルドなことではなく 自然な成り行きであった。そのあたりの展開はイタリアのアカデミア時代のことであったので自然とアルテポーヴェラの考え方が体に染み込んでいったのかもしれない。事実特別講師としてミケランジェロピストレット、エンリコカステリーニ、ルチャーノファーブロらが来ていたことを思い出す。また友人ヴィートとの二人展で刈ったばかりの草をキャンバスに詰め込んだ彼の作品がわたしにとって大きなショックだったことは以前このブログに書いた。
アルテポーヴェラは日本ではミニマムアートとしての捉え方の方が近いかもしれない。その考えは禅にも通じるところがあるとわたしは考えている。たとえば 茶人が 客を接待するため粗末な小屋に田の泥を塗って壁とし 茶を点てたという。そこにはものに拘らない本質的な一期一会があった。
そんな今では少しロマンチックな考えが私を捉えていて 赤土に入れ込んでいたのだ。ここらあたりの考えが全く会ったこともない異国の紳士に 私の絵を通じて伝わったということは しかも治部坂という日本の奥山の中で 奇跡としか言いようがない!アートは通じるのだ。
昨年暮れブルガリアを訪れ初めて会ったギオルギ氏は旧知の友のようだった。

2012年7月1日日曜日

犬塚邸

飯田市の歴史研が中心になって保存と利用に取り組んでいるそうで 先日築200年の町家『犬塚邸』の見学に誘われた。展覧会の空間にどうだろうというのである。
おもしろい空間ではあるが、いったいどんなことが出来るんだろう。これを相当きれいに磨きこんで現代感覚でリホームすれば 洒落た住空間になるかもしれない。手間も金もかなり要るだろう。
それを中途半端な掃除と思いつきの展覧会では人は来てくれないと思う。 やっぱり人をびっくりさせる空間が作り出せなくては・・・明るさ 昔の人の空間の仕切り方のおもしろさ 手の入った感じ(埃っぽい空き家な感じがないこと)はやっぱり必要最低条件ではないだろうか。 ( むー金がかかってしまうな。)ーーここまで書いて改めてエネルギーについて考え込んでしまった。この家に住んでいた商家はほんのちょっとの電球が明るさの源だったかなー。壁の煤の感じを見ると暖はかまどかいろりだったかもしれない。現代の生活のダイナミズムから考えるとつつましい限りである。あれだけ反対の気運が盛り上がった原発だがあの大飯原発が再始動したようだ。もっと明るくと言いながら足元ではとんでもないものに頼らざるをえないなんて、また無口になってしまう。

2012年6月23日土曜日

展覧会

飯田市の美術博物館で毎年3月おこなわれる現代の創造展については何度か書いてきた。いろいろな考え方生き方の中で発表される作品なので否であろうはずがない。だが、今を生きている人間に何かを語りかけているだろうか?何か新鮮なうったえかけがあるだろうか?感覚の世界なので理論的には進められない話だが私にはそれを意識している作品は少ないと思う。アートはそこが大事なのに。水戸黄門の印籠のような予定調和の作品が多すぎるのではないだろうか。飯田人のリスクを回避する保守性を感じて少し苛立つ思い・・・
さて そんな思いをいだきながら何人かの来年度出品予定者と展示場所を見てまわる。美博のロビーは柱が多くて空間感が限定されている。うまく遊べると楽しくなるのだが、やたら限定的な展示を要求する管理者たちや鑑賞者がいて嫌になってしまう。まあアートはそこのせめぎ合いも表現の一部でもあるのだが。
無理解な人たち90パーセントでも3パーセントの共感者があればそれは『良し』だ。
だが 公共の展覧会としては批判は受けるかもしれない。
弱気になってはいけないぞ!みなみなさま。

写真はこの時期東京の有楽町の交通会館で開催中の新耀展です。そんなにガツガツした作品がなくて私は好きで毎年参加している。比較的年齢層が現代の創造展に似ているが、やはり少しおしゃれかな 作品が・・。

2012年6月9日土曜日

風景のなかに身を置く

上田の夢の庭画廊にここ飯田から行くには岡谷のインターから和田峠を越えていくのが(正確には和田トンネルを潜って行くのだが)一番早い。先月はちょうど若葉の萌える季節だったから何とも美しい景色を車の窓越しに堪能した。なんと無限の緑色なんだろう!長和町辺りの谷は旧中山道で長い時間さえそこには見える。もっともっと味わいたかった。写真を撮ってその感動を固定したい(留めたい)と思ったが撮った写真は何とも違っていて不満だった。ゆっくり写生でもしてみたいと思った。そんな時東山魁夷的な日本画の抒情感も同感できた。静で崇高な気分にもなる。
一般の人々が風景画を好むのも納得する。とても素直な気持ちだ。
以前友人に『なぜ風景画を描かないの?』と聞かれたことがある。・・・む・・ 未だに的確に答えられない。写真に撮っても風景の中にあの感動が封じ込めれないという無念感が絵を描いてもあるのかもしれない。あの感動はその時期の自然の中に入って行ってこそ得られるものとなかば諦めている。

そして 微かに思っているのは 自然に対する感動は崇高で 自分の暮らしや生き方を問題にすることが嫌になってしまう。逆に言えば 自分の生きる次元での問題意識をテーマにして絵を描いている自分にはあまりに飛躍しすぎて 自然を描くことはそれこそ絵空事に思えてしまうのかもしれない。
なぜなら自然が美しいのは だれもが認めることだから。

2012年5月27日日曜日

なんとなくのコンサバティブは・・

現代の創造展という地元の展覧会の実行委員会があり 一苦労があった。実はこの冬くらいから何とか新しい風を吹き込みたいと有志で画策してきたのだ。前にも書いたがこの展覧会は飯田 下伊那の活躍作家たちの作品を一同に展示しようというもので、日本画、洋画、彫刻、工芸、書のジャンルがある。もう13回にもなるから様々なコレステロールが付いてなんとも魅力が失せた感がある。
一部の作家たちはもうこの展覧会に期待することはない、と見放している。その原因の一つに発表作家の固定化がある。この展覧会に多くの作家を選出しているいくつかの美術会も責任があると私たちは考えている。自分たち以外の価値基準がある事をもっと感じてほしいのだ。とにかく自分の会の作家を満遍なく出させようと考えているのだから ・・
そこで、今時 『洋画』だなんて括られたくもないから 新ジャンルを提案してもっと独立した形で自由に作品本位で展示できる場を作りたいと考えたのだ。
なかなかこの辺りを理解してもらうのは難儀であった。マンネリ感すら感じていない実行委員が多いし 9割は○○会の代表で委員になっているのだ。組織に入ってなければ存在さえない感だ。日本の組織の仕組みの一端だとつくづく感じてしまう。
何人かの心ある作家の意見が出て会場の保守的雰囲気は和らぎ とうとう新ジャンル創立は可決された。ほっとした、というよりどっと疲れた。来年は5人程度の規模でトライアル的位置づけであったがまずは第一歩と考えよう。
彫刻の山内氏 書家の石原氏、染色の大蔵氏本当にご健闘ご苦労様でした。後は作品だ!

2012年5月21日月曜日

日食

朝 上田の夢の庭画廊の小澤宅で目が覚めた。夕べは小澤氏と個展の打ち上げのような宴があったのだ。トスカーナのワインにイタリア料理となんとも豊かな時を過ごすことができた。今回の個展の感想も伺えた。それはやや辛口の味であった。
すこしアルコールが残っている頭でこれからの自分の絵の方向を考えながら ゲストルームから庭に出てみた。
そうだ、金環日食の朝なんだ!画廊の壁にはこんもり茂ったバラのツルの木漏れ日がふしぎに映っていた。

2012年5月13日日曜日

田植え

鏡のように田んぼが輝くこの時期、光に誘われて野に出る。田植えシーズンだ。この頃は農機具がよくなっているので私の家ではほとんど一日で田植えを終えることが出来るようになった。
夕方に植えたばかりの小さな苗がが風にそよいでいるのを見ると何とも愛おしく感じてしまう。
自然の中に抱かれて心の静けさを感じる一時かもしれない。

2012年5月5日土曜日

エキジビションブルー

5月はほんとに気持ちのよい風がふく。誘われて実家からギャラリー南無まで歩いてみた。一升瓶を抱えての歩きなのでちょっと一昔前の風情かもしれない。今日は夕方ご苦労さん会があるのだ。地元の方々がいろいろなイベントを企画して楽しい日になる筈だが・・田植えの準備が進む田んぼを眺め 新緑の山々を見渡し、歩く 歩く。陽の当たった道に紐のようなものが見えた。近づくとそれはシマヘビだった。生きてはいそうだがあまり動かない。風がまだつめたいのかなーと思いつつ道の別の脇を通り過ぎる。小一時間でギャラリーに到着、私はそこではエキジビションブルーになる。他の3人の作品がよく売れ私だけが取り残された感じだからだ。まー受け止めるしかない。受け止めよう!もう一度爽やかな風に当たろう。私の顔はたぶんさっきのシマヘビのように硬直していたはずだ。

2012年4月29日日曜日

南無2012

今年も春爛漫の中 地元で4人展が5月2日から始まる。多くの人が来ていただけることを期待しつつ,最後のあがきをしています。

2012年4月22日日曜日

作品タイトル

今日から上田市の夢の庭画廊で個展がオープンする。展覧会のたびにちょっとした悩みの種が作品にタイトルを付けるということだ。たいがい作品作りがいっぱいいっぱいでろくなタイトルが付いていないことを白状する。いや、しっかりとしたネーミングが出来た作品ももちろんあるのだが総じてぴたっとしたネーミングは付けられないのが実情だ。
私の場合 作品が言葉の概念から出発していないので出来上がる寸前ぐらいからタイトルを考え始める。しかし展覧会が近くにないとまず『決定!』ということにはならない。と言うかしないなー。だから個展前はしんどくなってしまうんだ。絵のテーマは本質的には同質のものだし それを言葉に翻訳すると陳腐で どれも同じものとなってしまう。 作品の名前なのだからある程度客観性もなくてはならない、でないと『あの作品 でかいヤツ グレーの・・』とか言って呼ばなくてはならないのだ。とても通じない。実際作品にぴったり名前がはまった作品は妻や友人との会話でも登場しやすい。反対に名前が漠然としたものや言葉に踊ったタイトルはイメージも曖昧になってあまり会話には上がらなくなってしまう。
結局作品のイメージがはっきりしてることが大事と言うことなのか・・・

2012年4月14日土曜日

桜開花

しばらく お休みが続いたがぼつぼつまた再開します。なぜか桜の花が咲く前はいつも軽い鬱状態で考えがまとまらない感じ、散歩を始めたり展覧会に出かけたりしたが、マイナス思考的でよろしくない。・・・
やっとここ二日ほど前にこの辺りの桜が一斉に咲いた。不思議だが いっきに気が軽やかになってブログを書く気になった。友人にきゅうりを作っているのがいるが 彼も冬はなにかと気分が滅入って鬱になるという。でも きゅうりの芽がくにゅくにゅと曲がりながら育ち始めると急に元気が出てくると言っていた。もしかして自然の摂理なのかもしれないなーこの鬱気分も。
さて、来週は上田の夢の庭画廊のオープニングだ。攻めの気持ちになって来たか・・・だが。

2012年3月25日日曜日

価値の多様化について

不景気の流れがヒタヒタと来ていて何ともやるせない。私の働く会社もご他聞にもれず何かと厳しい労働条件になってきている。こうなると小さな会社は心の中まで統制される気分になってとても嫌だな。なかなか一つのグループまたは組織の中で違う意見を持って活動するのは難しい国だとこんな時感じてしまう。話が大きくなってしまうが原発を取り巻く状況では反対を唱える人は変人扱いをされてきた。でもあの事故が起こってからはその主張が誤りではなかったし変な人たちでもないことがよくわかった。なんではじき出してしまうんだろう、異質なものを。価値観の多様化なんてしゃれたことを言っていてもちょっとした社会情勢の変化ですぐタイトな社会になってしまうんだから、懐が狭い、せまい。さて 今年は花の季節がなかなかやってこないが 友人のブログにミモザの苗を植えたという話が載っていた。たしかヨーロッパではこのころ女性の日というのがあって(いつだったか忘れた) その日はミモザのかわいい黄色の花を持った若い女性たちが街をニコニコ歩いていたなー。ぎしぎしした暮らしの中であのころをつい思い出してしまった。

2012年3月18日日曜日

夢の庭画廊

来月は3年ぶりに上田の夢の庭画廊で個展を開くことになっている。この画廊は有名な無言館のすぐ近くにあって 陶芸家の小澤楽邦氏の私邸の広い庭の一角にある。当然小澤氏がオーナーであるが まことにユニークな人柄で(俳優の山崎努似・・・) 全国の多くの友人たちとつながりを持ちながら画廊運営を楽しまれているようだ。昔からミニコミを発行されていて 時々送られてくるその記事はまことに多様で興味深い。
さて 今回は私にとってもとても大事な展覧会と位置付けている。なぜならあの大きな震災の後 何について表現するのか 自分はなにを言いたいのか ----そこが問われていると思うから。
その庭は みごとなバラも咲くころだろうな。

2012年3月10日土曜日

明日はもう3.11

過日 今開かれている現代の創造展の懇親会があった。40人くらいの参加者の会であった。2~3年前から私も顔を出しているが、大方は60代から70代といった年齢層で元気な老人クラブ的な雰囲気がある。微笑ましいのであるがアートの会とは ちと、趣が違うかも知れない。若い人がいないのだ。南画会の方もそう言っておられた。・・・だろうな。
書道なんか若い女の子には ブームなのにいっこうに既存の書道会には入ってこない。・・・だろうな。
洋画のグループも同様な話を聞く。 結局今の若い人の思いを表現できる世界ではないんだろうなあ。
少し違うが 先日隣組の来年度の役員等をきめる会合があった折、似た行き詰まり感があった。若い人が実際少ない、そして参加を嫌う。だから今のままの自治体を構成していくのが難しいのだ。《簡素な組織に改革を》と掛け声は存在したが先送り続きで、実態がとっくに先に行ってしまったのだ。
『いいたいことはあるけれど、自分が少し我慢すれば みんなに迷惑掛けないで済む』といったことを全員が考えているので、『ここを変えて行こう』とは言わないし、全体についてのことを誰も考えたがらない。
鬱とうしい、めんどうくさい、自分ひとりでは何もできない。だから家に篭ってまんがっか~!
東北大震災があって明日で1年、そして原発事故。自らを変えていかなくてはならないはずだ。

2012年2月12日日曜日

飯伊50人展

なんとか飾りつけを終えることができた! 実行委員として名前があがっているだけに責任は痛感していたが こんなに展示がハードとは思わなかった。主にオーソドックスな平面作品の展示責任者と役割を仰せつかったのだが 私の作品は現代美術なのでかなり難しい仕事だと言わざるを得ない。半具象的な油彩画は 一つ一つ見ると 理解できるのだが 複数になるとどうして重くなってしまうのだろう。展示についてここが最後まで解決できなかったことを残念に思う。
一方 今回久保田(寛)氏の昆虫戸棚にはとても嬉しかった。飯田で創作活動をしているからこそ出来る作品だし生き方だと思う。もし都会で発表を続けていればつまらぬ価値観に絡め取られてオリジナリティが失われてしまっただろう。あの制作態度が飯伊作品展の最大の意義だと私は考えたい。都会の価値観を移入する時代ではもはやないはずだ。
この展覧会のスタートに疑問をもつ方がいると聞く。しかし これから価値観の自立性を高めて 個人個人がヒラバ(平場)で作品を発表し 見る人も価値観を人から授かるのではない関係が育っていく展覧会になれば それでよいのでは、・・・

私は現代の創造展でも 実行委員会のメンバーで 決してこれを否定してこの50人展を始めようと考えたのではない。にっちもさっちも動きが取れない会に間接的にすこしでも風が当たればいいと感じているのだ。この辺りを理解して参加してくれた皆様 ありがとうございました。

2012年2月4日土曜日

飯田の地元展2つ

この時期になると飯田市美術博物館で現代の創造展が開かれる。(2月21日から3月11日まで。)飯田市下伊那の日本画 洋画 版画 彫刻 書 工芸の作家たち百数十名の展覧会で、今年は12回目になる。この地区の代表のような大きな展覧会であるが中身はもやもやしていてよくわからないことが多い。なぜならいくつもの価値観(それぞれのアートの価値観だけでなく処世術的価値観も)が既得権として内在してしまっているから。なかなか改革はできない。同じような形を続けていくことが目的化してしまうのだ。マンネリ化しつまらなくなってしまうのは当然かもしれない。
どうしたらいいんだろうと考えつつ 有志で新しい展覧会を立ち上げた。《飯伊50人展》というものだ。個人の主張やテーマは個展で展開すべきもの、共通のテーマや切り口はグループ展がいい。さて この地域に関わる作家たちが一同に発表するとすればどんな可能性が出てくるのだろう。そしてこの漠然とした展覧会は回を重ねてどんな発展が出来るのだろうか?参加者全員の発展性がないと上記美博の会と同じになってしまうだろう。参加者の新陳代謝もポイントだろう。
私としてこの展覧会に期すところは個人としての参加ということだと思っている。何処何処会(または誰先生)の推薦による参加は考えたくない。参加者の責任はこの展覧会が持ち続けなくてはいけない。そう思うとこの会は大きすぎるような気もしてきた。・・・実行委員の責任は重いな。憂鬱(!)。

2012年1月21日土曜日

原点

30年前にフォリーニョの町で二人展をおこなった。イタリア人の旧友ヴィートとの展覧会で私にとっては原点のようなものだった。イタリアに行く前の私は美大浪人を繰り返していたが、 時はカウンターカルチャー真っ盛りの70年代後半、アカデミックなデッサン重視の入試は私には全く魅力のないものになっていた。その後紆余曲折ののちイタリアに渡った。 今までの展望のない具象絵画の勉強からからどうやって脱却したらいいのか考えていたころ アカデミアの友人ヴィートが2人展をやろうと誘ってくれた。私はなんとなく抽象表現主義的な絵数枚を用意して翌日の飾りつけのためヴィート宅を訪れた。
当日の朝ヴィートは庭の草を刈り取りキャンバスの裏に詰め始めた。なんだ!?・・・
それが作品だった。会場でその緑は新鮮だった、一日たつと表面のビニールが結露して緑のグラデーションになった。彼はこの中部イタリアの自然を愛しその調和の中での人生のようなことをテーマにしていた。それを刈り取った草で表現しようとしたのだ。
幼稚な発想だと言うのは簡単だ。しかし 何の主張もない美しい絵よりよっぽどアートだ、と感じた。『何が言いたいのか』と言う問いに答えていない絵はアートではない。なんとなく表現的に仕上げた私の作品こそ幼稚に思えた。そう感じさせてもらった二人展だった。
写真はその時のもので 今は亡きYasuji君が写っている。
ヴィートの家を30年後に訪ね 今アートに失望していると言っていたが自然豊かな郊外にたくさんの鶏や猫や犬のいる大きな家を持ち いい家族に恵まれて暮らしているのを見ると昔のテーマが一貫しているなと感じずにはいられなかった。

2012年1月13日金曜日

思い出を噛み返す

牛が噛み返しをするように ふと気がつくと暮れの旅行を思い出してしまう。考えてみればなかなか得難い時間だったし尊い人との触れ合いだった。だから、その旅の断片を思い出すに任せて 書いてみようと思い直した。
Vitoの家から車で15分くらいのFolingoの街は懐かしくて改めて好きになった。中部イタリアの町では珍しく丘の上になく平らな町並みで温和な感じがする。Vito宅に泊めてもらった次の朝 Luciaとともに訪れた。寒い朝だったが 町の中心の市庁舎前の広場は比較的おしゃれした人々が集まっていてそれぞれにおしゃべりしたり ちょっと歩いたりと心豊かな風景だった。クリスマス前の日曜ということもあってかとてもいい雰囲気に感じた。今思えばもう50メートルほど通りを歩いて30年前にVitoといっしょのやった二人展の会場を見るべきだったと思う。たしかあそこだなと遠くで見ただけだった。
Luciaの実家にも立ち寄って見せていただいた。今は年老いたお母さんと長女Margheritaが住んでいるという。お母さんは教会のミサに行って留守だった。Margheritaにとっては駅が近くペルージア大学に通うのに便利なようだ。だんだん親から離れていくんだな・・
昔 イタリアの社会になかなか入っていけないなと感じていたが いまこうしてここにいるととても近くに感じる。
通りに出ると『チャオ ルチア!いいクリスマスを』と近所の人が声を掛けていた。

2012年1月4日水曜日

諏訪の石仏

昨年から続くイベントの最後は父の米寿を祝う家族旅行であった。明日から仕事始めの妻は ため息ともつかない大きな息をして 『ああー、やっと一区切りついた』と言った。ヨーロッパ旅行の準備、そして旅行、つぎは家族旅行とほんとに大仕事続きであった。ご苦労様であったと思う。楽しいことが続いた後は 生活に日常を取り戻せねばならない。娘は なぜか気に入っている言葉 【万時 塞翁が馬】を繰り返しつぶやいている。気を引き締めていないとよくないことでも来るのか・・・
さて その家族旅行は諏訪であった。朝30分ほど 寒風の中歩いて 石仏を見に行った。不思議な魅力の石仏だ。いわれを聞くと偶然のながれ(この巨石を鳥居に使おうと石工がノミを入れると石が血を流した。それで鳥居に使うのをやめ石仏にしたという。)の中でできたというが、その美意識は太古のおおらかな人間(神とともにいる)を感じる。そしてそれは偶然じゃない、今の価値観とは異なる時代の美の表出と思う。岡本太郎が再発見したいわれがそこにあると思う。