2012年12月22日土曜日

アートツレヅレ

突然ながら、アートはなぜあるのだろう?
自分をわかってもらいたい、という渇望あるから・・・?
自分が理解されていないというストレスから・・・?
では、自分は誰から理解されたいの・・・?社会?家族?
叱られて涙で足元に落書きしたら本物そっくりのねずみの絵になったという話あったなー。
あれってまさにアートだろう。
孤独の隣にアートはあるんだ。きっと。
その裸の心が真ん中にあって それが外に出て行こうとする(誰かに向かっていく)のがアートに違いない。
さて、その心だが 美術史的に考えて [裸の心の痛み]はゴッホ辺りからずっとわたしたちの痛みかなとかんじている。何らかのグループの中で生きている私たちは同時にそこからの自由も求めずにはいられなくなった。そこでグループから出る、すなわち『孤独』・・・
社会は豊かさを求めて急激に発展していったが、窮屈にもなっていき 社会からも脱落する人が出始める。はじかれて貧困、そして孤独となっていく。
その社会の価値観も 戦争や 環境破壊に行き着き その“豊かさ”に疑問符が着き始めた。
完璧を誇ろうとしていたヨーロッパ近代文明のほころびだ。宗教から独立し科学が人々を豊かにするという近代文明にバツを付け出したのが 現代アートの骨なのだ。アフリカやアジアの素の文化に注目が行くようになるのもその一例といえる。ここの辺りの方向性は 今のアートの共通項といえそうだ。
私たち周辺のアートはどうなっているだろうか?
美しい景色の絵には 穏やかさ 自然の豊かさはある、しかしそれはあなたの今生きている偽らざる心なのだろうか?あえてそんな穏やかな心に自分をもって行って描いているんじゃないのか、と。その趣味のいい穏やかさがほんとの言いたいことなのか?裸の心なのか?・・・見る側も そこの安心感しか求めていない気がする。もっと多くの心を理解してほしい。
 現代美術家はそれにどんどん視点を増やしていった。(保守的な絵描きは未だ例の穏やかさしかテーマにしていないが)いろいろな角度で現代の問題を提起し裸の心を伝えようとしている。アンテナさえ張っていれば どこかで自分だけが感じる強い共鳴があるはずだ。感じるものはあるんだ。
自分の生きている今にもっと意識をもっていこう。生きる糸口をみつめよう。
 
 

2012年12月1日土曜日

個展終了

るたんでの個展が無事終了いたしました。おおくの方に概ねよい評価をいただき一息ついているところです。何度か書いた話ですが、見ず知らずの人に私の絵の前で 突然微笑みかけられ一機に旧知の友人のように深い話が出来るのは 個展ならでの喜びです。今回も何人かの方とそんな話が出来たことはたいへん嬉しかった思い出です。また、3年前にそんな出会いをした方から私の発表を待っていましたと言ってもらい これもまた喜び一入でした。
さて、この期間中私は念願の旧友の墓参りをすることが出来、心のおちつきを持てた気になっております。ふしぎ・・・。
彼はペルージア時代の画家志望仲間で 帰国後時々会っては酒をのみイタリアを懐かしんだものでした。10年前深酒がたたったのか、突然この世に別れを告げてしまいました。
お墓は千葉県の成田近くで疎遠を悔いていたのですが、6年ぶりに墓に赤ワインをかけてきました。白っぽい花崗岩の墓が赤いワインで染まるとなんか痛々しく思えて 途中でやめてしまいましたが。私鉄のその駅は両隣の駅が新興住宅地で賑やかなのに対し山がせまっていて 昔の北鎌倉のような風情があります。 この墓参りを嫌ではない理由のひとつかもしれません。心が落ち着ける時間でした。合掌。