2013年12月20日金曜日

富山でのグループ展

奇遇と言うべきと思うが、来年早々北陸でのグループ展に参加することになった。つい先月まで、親不知の海でヒスイ探査者として活躍していたのに、今度は富山市で作品を展示することが出来るのだ。じつに愉快 または不思議。
昨年銀座の画廊「るたん」で開催した個展の折 知り合ったK氏が誘ってくれたのだ。私は絵を介してし会える人には ほんとうに弱い。『どうです、いっしょに展覧会やりません?』なんていわれるともう二つ返事でOKしてしまう。  詐欺にでも会わなければいいがと 我ながら心配だ。 
さて、今回は富山市の繁華街中央に新しく出来たギャラリーNATSU・
と言う場所で真冬に開催します。
期間は1月5日から18日まで。参加メンバーはK氏以外は知りませんがいい出会いがあるといいなと思ってます。

2013年12月13日金曜日

作品を作りながら

テレビのコマーシャルを見ていると時折 「おーっ」と感心したり じっくり納得したりする。なんとなくうれしいが、反面腹立つコマーシャルもある。どう見ても騙そうとしてるとか、視聴者を馬鹿にしてると思えたりして 実に嫌な気分になる。まあ聞き流せばいいのだけれど・・・
演技が上手いというのも 時には嫌味なものだ。見る人を騙して 幸せにしてくれるのならいいけど逆なことが多い。それはもう詐欺と言っていい。コマーシャルはこの手があるから困る。
どこかの国のA首相もなんとなくこんな匂いがしてきた。
表現に携わるものの端くれとしては 最近の表現の巧妙さが嫌いだ。
私は例えば色について こんな風に考えている。液晶や絵の具の色は鮮やかできれいだ。だからついこれらを使って遊びたくなる。でも後で虚しくも思う。液晶は目が疲れるし 絵の具は科学的で微妙な想いが載らない。ちょっと考えればそれらはみな
巧みに作られた科学合成品なのだ。
だから、自分の作品は自分を裏切らない土のような安定したものを素材にしている。それは 演技がそれ自体 うそモノではないといっているように感じているからだ。

 

2013年11月30日土曜日

北陸雑記

北陸に事情があって働きに来ているが、日本海は荒く そして吹く風は冷たい。
とはいうものの実は美味い魚を食ったり 美術館を見に行ったりと ちゃっかり楽しんでいる。
珍しいところがあるから仕事帰りに寄っていこうと言うので友人について行った。発電所美術館というものだった。英語でart power station なんとも すごい。
富山県入善町にある 元水力発電所を利用した美術館でとても魅力のある空間だった。穏やかな田園地帯にひっそりと立つこの美術館はバブルのころのようにアートに夢の花が咲いた華やかさは今はもうないが どこかおおらかで好きになった。
 原発事故の後 エネルギー問題を提起したレベルの高い展覧会なんかやってみるのもおもしろいかも。 
しかし、人はあまり訪れないだろうな、いい美術館はみんなそうなんだ。なんとか維持していってほしいものだ。
『こんなところにこんな素晴らしい○○があるなんて!』的に、たまたま訪れたのも感動の原因かもしれない。それに引き換え 後日訪れた金沢の21世紀美術館はとてもおしゃれで素敵であったがなんとなく底の浅い感じを受けて少し残念であった。私の地元の小笠原屋敷資料館も確か同じ建築家だったな ・・・
さてさて、帰りに友人の車に乗せてもらったら 足元にじゃまな大きな石が置いてあった。降り際に聞くとその石はヒスイ鑑定でよい返事をもらえなかった例の石であった。


2013年11月16日土曜日

ヒスイ

ひょんなことから糸魚川の近くに仕事に行くこととなった。が、今全く関係ないことに気をとられてしまっている。実は海岸でヒスイを探しているのだ。唐突に だ。その海岸にはヒスイが落ちているのだという。ご存知だろうか、ヒスイとは・・・地球の地殻変動による力によって出来る神秘の宝石。よく緑色に磨かれたマガダマをイメージできると思う。日本ではここだけで見つけることができるというのだ。海岸を歩く人はみんな石を探している、なんておもしろい景色だろう。
何となく馬鹿にした気持ちで海辺に近づいた私はいつの間にか一攫千金を夢見ていた。当然のように石拾い始め、三十分もたてばポケットは小石でいっぱいになってしまっていた。
実はどんなものを拾えばいいのかさえもさっぱりわかっていなかったが 珍しい模様の石がいっぱいなのでついポケットに入れてしまうのだ。
ところが ところが30キロもあろうかという石を友人が発見したのだ!大変だ。どうしたらいいんだろう!?『これは青ヒスイの原石に違いない』みんな興奮している。・・・
欲の力かその巨石を皆で担いで 高いがけを登り 車まで運んだのだ。ある人はずーっとその石をなでていた。写真も撮っていた。
さて、どこかの鑑定所に持っていくと友人たちは言っていた。来週がたのしみだ。

2013年11月10日日曜日

本日個展最終日

ミュー自然美術館の個展が今日で終了。今回で6回の開催でしたが紅葉の美しさは一番印象的だったと感じた。

さすがに昨日あたりは寒くてストーブの近くに居っきりでしたが 枯れ葉がはらはら落ちていくさまを見ていると美しすぎて照れる程でした。春草の落葉なんか思い出している自分にたいして我ながら呆れてしまいました。(私は日本の近代美術が嫌いなのですが・・・)
ここの美術館を訪れる客は決して多くはないのですが とても豊かな空間あると思っています。つい展覧会の当事者は入館者は何名で 絵が売れたとかそんな話をしがちなんだけど(もちろん絵描きとしてはそれは切実な問題ですが)その次元とは一線を隔した何かに触れさせられます。「豊かな空間」と言ってみるのですが上手く伝わるか・・・
大体この美術館自体儲かっているとは決して思わない。よくやっていると思う。一般の経済の常識では語れない館の姿勢、≪豊かな自然のなかで自分をふと感じたりできる時間を持つこと≫を貫いている。だからこの美術館から小一時間かけて帰る毎回の道のりは孤独そのものだ。もう6回の開催になるのでやっと解ってきたのだけれど一般社会の道理に帰るまで軽い鬱に悩まされるのはしかたのないことなのかもしれない。家に帰って晩酌でもあおろう!  って、・・・
それにしても絵描きは絵が売れないと悲しい。



2013年11月1日金曜日

L'ETA ROSSA

11月14日木曜日から一週間3人展を開催することにした。とっても忙しい決定で大丈夫かとも思ったがメンバーがメンバーだけについ二つ返事で決めてしまった。実は高校時代の美術班の仲間のHくんが勢いよく「○○日からTくんと3人でグループ展をやるから参加しろ!」と電話があった。私はとても興味が沸いたのはHの作品を高校時代から見たことがなかったからだ。彼の話すことは昔から的を得ていて文なり絵なりのまとまったものをいつかは見たいと思って久しかったからだ。
やっとそのときがきた、と思い 「やろう」ということになった。
われわれは60歳になっていた。・・・というほどに大げさでもないが軽く還暦を絡めて3人展の形にしてみた。『L'ETA ROSSA』のネーミングは赤い年のイタリア語訳。さてどんな発表になるやら・・
唐突だが、
われわれの高校時代からのことをザーッと振り返ってみたのが右の表だ。原子力の変遷(エネルギー政策)と密接な関係のある世代だったのがよくわかる。それにしてもいろいろなことがあった。で、これからの我々はどう道を歩いていけばいいのだろう。皆で酒を飲みながら話をするのもいいかな。

2013年10月23日水曜日

紅葉が始まった美術館の森

今年は台風がなんども迫ってくる。いい季節なのに被害が出たりで困ってしまう。
私もミュー自然美術館での個展が18日にオープンしたのですが 雨が多くてなかなか人に来てもらえない状況、・・・
先週の土曜日は降り続いていた雨が 運よく朝の内に止んで気持ちのいい一日を美術館で過ごしたのです。といっても日の光は夕方少し差しただけでしたけど。
濡れた森の匂いをみなさんはごぞんじでしょうか?
雨の深い森にいたことはありますか?まあ森で遭難するようなことはそうないのでそんな経験の方は少ないと思いますが、あのひんやりとした空気と木々の匂い、やや薄暗くて緊張感があって・・・でも、なんともいえない爽快感があってと、とてもいい気持ちなのです。(遭難は別ですが)
先週の土曜日は森の中の美術館だけにそんな空気が一日立ちこめていたのです。非日常的でした。数少ない訪問者とゆっくりお話をすることができ とても落ち着いた気分でいられました。
夕方も微かな日の光に映える始まったばかりの紅葉をたのしみました。
台風が今週末も来るようで あまり風流にしたっていられないけれど いい日を選んで非日常をたのしみにぜひぜひ
お出でください。

2013年10月12日土曜日

ミュー自然美術館の展示に言葉を添えよう

さて、この18日金曜日からミュー美術館にて個展が始まります。紅葉のいい季節なのでぜひぜひ多くの皆さんに来ていただきたいと思います。
今回は新作ばかりの展示ではなくここ数年の作品と今年のものを対比するような形を考えております。それから作品に自らの言葉を添えてみようかなとも考えています。それはここ数年ギャラリートークのようなものを展覧会ごとに行っていて、時として言葉も初めてみる絵に近づくヒントに成り得ると思ったからです。私がいない時でも来館者に見る参考にしてもらえればわたしの絵のちょっとした入り口なるかもしれない。
今までの描き終え展示してしまえば後は知らないという態度では よほど私の絵を見てきた人にしか理解してもらえないだろうなとやっと解ってきて反省しているのです。立石のギャラリー南無の展示を何年かやって思い始めギャラリートークという形にしましたが もう少し前に進んだ自分の絵の売り込みという形だけは未だに苦手です。
ホームページをパソコン教室で習いました。早速、個展の自作ホームページを公開します。
これこそ皆さん 見てくださいませ。
http://www53.atpages.jp/kinnjimisawa/

2013年10月5日土曜日

汚染水どうなってんの?

とても一般論で 私が書くことでもないような気がするんだけど、でもちょっとオカシイ・・と感じているので書くことにしました。それは東電のこと---
オリンピック招致に「汚染水はコントロールされている」と世界に大見栄を切ったようだけど、東電の姿勢はどうみてもお粗末の限りだ。私が勤めていた零細企業でも(製造業)不適合品が出ると一大事で<なぜなぜ>対策書を執拗に書かされて その根絶を要求された。また予防の策も常に考えさせられていた。だからそれが今や製造に関わる世界では当たり前と思っている。また、この頃私が通っているパソコンの教室でもエクセルを使ってのQC手法が授業にあるくらいだから、もっと高度な品質管理体制の大企業(その上間違いの許されない原子力の会社)がつまらないミスを出すはずがないと思うのだ。しかし続出している-----
何か構造的に問題があるに違いないと思う。そのあたりはなぜ明らかにさせて行けないのだろう。まるであの白い放射能防御スーツによって誰がいるのがわからないように 責任が消えていってしまうようだ。
スパイク・リー監督の銀行強盗の映画に似たストーリーがあった。グループで銀行を襲って、大量の人質を取る。そしてみんな全く同じツナギとマスクを着させる。犯人たちも。そうなると警察は手が打てない・・・
しっかりした原因追求が入り オープンな対策を望みたい。そうでなければ福島の漁業も先が見えないに違いない。また、東電の手法も怪しげで何も信用できないではないか。新潟の柏崎も稼動の方向だという。不透明に中電も関西電力もそちらの方向に向かいだすのは不気味でならない。消費税アップのために経済を上向きにしていかねばならない必要性が変な動きになっていかなければいいけど。

2013年9月23日月曜日

高松宮殿下記念世界文化賞

秋分の日の昼にゆっくりしながらテレビを見ていたら 懐かしいアート作品が急に映し出された。唐突に昔に引き戻された感覚だった。首記の文化章に イタリアで授業を1~2回ほど受けたことのあるミケランジェロ ピストレットが受賞したというニュースだった。
なんと懐かしい。ペルージアは田舎の美術大学(学院)で私が通っていたころはちょうど学校の変革期、1年のころはデッサンをマッタリやっているようなつまらないカリキュラムだった。2年になると校長がローマの人に代わり 革新的な先生が多く入ってきた。学生たちも熱が入った。特におもしろかったのは美術史の先生で 毎月当時の最先端(ちょっと後かな?)のARTE POVERAの作家たちを連れてきて講義をやってくれたのだ。そのなかに彼もいて ある日町の噴水を学生たちと手を繋いで囲んだパフォーマンスをやった。「なんだかなー」と当時私は思ったんだが後で写真を見るととてもかっこよかった。
熱くていやに照れくさい時代だ。でもとても大切にしたい時代だ。だからARTE POVERAのことを思い出させてもらって ブルガリアのギオルギさんにはとっても感謝している。そのいきさつは昨年銀座るたんの個展でパンフレットにギオルギさんが投稿(昨年10月20日ソフィアからのメッセージ;このホームページ)してくれた。そして自分のやっていることはちゃんとした基礎の上でやっていることなんだと改めて思うことにした。

 

2013年9月21日土曜日

パソコン劣等生は思う

久々の投稿になりました。以前にも書いたパソコン教室にこのところ没頭して・・ 否 頭が占領されていて他のことが出来なかったというのが本当のところかもしれません。正直授業についていくのがいっぱいいっぱいなのです。15人の生徒の中で私の世代は2人だけ そして男も2人、完全なアウェイ状態といえます。指も頭もスピードのステージが違いすぎてどうしても超緊張を強いられているのです。夜は倒れる様に爆睡です。
止むを得ず絵を離れて2月ほど こんなことは20年来なかった。だから自分の絵について なんとなくちょっとはなれた思いを書き留めてみたくなった。
①土の質感はやっぱり好きだけどそこから離れられないのか。
②画面が漠然としていて言いたいことが直接的でない。もっと端的にならないのか。
さて、パソコンを毎日やっていて思う・・・この膨大な そして日々の 些細なデータを一つ一つ入力して それを解析する。そして何らかの法則で既定の手をうつ。昔のように数少ない天才が個人的にやっていたことを今や誰でもパソコンによってやり得る。社会の質的な規模は無個性ではあるが大いに高まっていくのはよくわかる。
この膨大な仕事量を現代の私たちは抱えて生きていると思う。好き嫌いに関わらず。便利な電気はあるが同時に放射性廃棄物もある。高速道路はあるが国の借金もある。今平和な暮らしがあるが近いうち80%の確立で南海大地震があることも知っている。地球温暖化は・・・
中世から天才たちが近代を切り開き、その後テクノロジーが現代を展開させている。でも私たちの暮らしは、嬉しく楽しんでいられるんだろうか?心安らかなものなんだろうか?
テクノロジーの発展はクールな生き方も必要だが、幼い子供の不機嫌な顔に何か共感するところがあるのもわかる気がする。奈良の絵を思い浮かべてみた。

2013年8月31日土曜日

キラキラ レインボーに輝くCD

デジタル関係の道具は日々増加している。それは確かに便利ではあるが私自身が置き去りにされている感じもある。
また これは一般論だが今の50歳か~60歳の世代の次の世代はいろいろな組織にあまり組みしようとしていないと感じる。例えば隣組の自治会とか 農業関係の組織とか 公募団体、わたしもこれらの組織の持つ意義には若いころから抵抗してきたが いよいよこの頃はそれさえ考えず参加などありえないという世代になってきたように思える。
言葉は 母から教わり 気がつけばその母とも口論が出来るほどになる。しかし他の表現方法は習得に苦労がいって、ピアノや歌などは先生につかなくてはなかなか身につかない。工芸の技術もそうだろう。所謂弟子入りの形態だ。しかしこれは人間関係がとても濃厚で精神的には中世的修行なので技術こそ素晴らしいが今はあまり考えられない。学校がそれに代わった。師弟の関係も少しは距離が保たれ 女性も進出できるようになった。しかし組織化がおこり
平面領域展:犬塚邸会場
妙な権威主義のおまけもついてしまった。・・・
ここでデジタル世界の登場である。もう初歩の人も仰ぐべき師がいなくてもパソコンさえあれば何か出来る、ということになった。下積みという概念は無くなったかもしれない。一人でしかもオリジナルの世界を作れるとしたらめんどうな人間関係に首をつっかまなくてもいいというわけなのだ。
私には このデジタルの世界がまだまだ外国語なのでここで世界を作るということはマズない。今まではむしろ批判的にアナログな絵(土の絵)を描いていた。だが、これからは身近に考えていかなければいけない世界になっていく。・・・平面領域展原隆夫氏の虹色に輝くCDの作品を思い出しながら考えた。

2013年8月27日火曜日

第4回平面領域展始まる

雑念の中で私の「平面領域展」が始まった。自分の思いを突っ込んで突っ込んでいくことがひとつの方向性といつごろからか思い込んでいたが、空回りしてるな、ともうすうす思っていた。今年の春ころからのコプトシリーズが転機になってほしいなと考え今回の展示に臨んだ。
明るくなった、とか言い切りができたとか、嬉しい評価をもらえてとても喜んでいる。それまでは全く筆が進まなかったんだから天と地ほど心持は変わってしまった。
実は 「これらの絵は ある到達点に来ているから筆を入れてはならない」という思いもあった。自信もさしてなく、昔からの思い込みで(描き込まなくてはいけない)不安ばかりの日々が展覧会の前一ヶ月間続いた。
まあ、__『ごちゃごちゃと黒くなるほど手を入れれば思いは表現できるんだ』という思想は間違えである__肝に銘じたいもんだ。

2013年8月17日土曜日

夏のばら

今年の夏はほんとに暑くてつらいな、と嘆く日々である。でもつらいのは実は展覧会を前にした憂鬱であるとも気がついている。
昔から自分の絵が[所謂世の中から]認められたいと切望していた。しかしこの歳になると それはちょっと現実離れした夢ではないかとわかり始めるに至る。だって日本では百人足らずの絵描きしか絵では喰って行けないそうだから。ちなみに文筆家は50人余だそうである。あれだけ毎年芥川賞や直木賞やらで新人が華々しくデビューしてるのに・・・
今年に入ってから そんな気分だから『好きな絵を描いていけばいいじゃあないか』とわりとゆるく構えて絵を描いていた。ところがここのところ全く筆が進まないのだ。根が真面目な私は何ともすっきりしない日々となってしまった。 自分の中で[所謂いい絵]という価値観が頭を擡げてきてしまったのだろう。自分の作品は汚くて 弱くて云々・・は許せないと自分を縛り始めたというわけだ。こういう葛藤は「今さら何を言ってんだ」感がいっぱいだが 今さら悩まされる。大事なとこだけ見てればいいんだよ 怠惰でもいいんだよ と自分に言い聞かせ久しぶりに筆を持つ。ばらの色にいやされる。

2013年8月10日土曜日

平面領域展近づく

ビエンナーレ形式のこの展覧会は今年が開催年だ。なんか早いなー、もう二年たつんだから。今月24日から9月1日まで、飯田創造館と今年は松尾の犬塚邸、および中央通の吾亦紅でも開催となる。いつものメンバーなので、殆ど桐生さん任せで「後は展示のとき会いましょう」、という感じである。いいのかなーと思う反面 あまり揉めなくてらくだ。
いいのかなーって感じるのは 当初は現代美術をもっと知って貰いたい、という意識が強かったので「みんなでちょっとした風を起そうぜ」なんて意気込んでいた。・・もうぼつぼつ10年の時が流れるのかなー、飯田の文化意識は菱田春草に代表されるような近代好きで アートというより書画骨董系のファンが多かった。だから鑑賞のテーマは『安定』、『調和』、『美』が基本。 不安定な心を表現する といった考えは敬遠されてきた。例えば山本弘の手法は現代美術ではないが受け入れられなかった。日展系日本画が主流だったといえよう。だから絵を学ぼうという人たちも形から入ってそれでよしとしているように見えてならなかった。
私たちは 今この飯田に生きていてこんな思いで暮らしているんだといった心持を表現してみた。それは全く『調和』でもなければ『安定』でもない、所在無い一人間の悲しさみたいなものだ。この表現にどう反応してくれるかが(ありきたりの美にありきたりの感動するのではなく) 現代美術のひとつの基本的な形ではないかと考えてこの展覧会を始めたと私は考えている。
決して私たちのやっていることが新しいことだから田舎で発表しているんだとは全く思ってはいない。例えば私が挑戦している抽象画は すでにその抽象性がゆえに「何がなんだかわからん」とか「描きたいものを描いてなぜ悪い」とか批判を受け絵画の危機といわれるに至った。そして登場したのが奈良美智や村上隆たちだ。・・・そんな世代がちょっと倦怠期のこの展覧会にも参加してほしいものだ。



2013年7月28日日曜日

タッチタイピング

長い間パソコンを使いこなしたいと思いつつも 何とも心もとない知識でごまかし過ごしてきた。ぜんぜん進歩の兆しが見込めないのでついに教室に通うこととした。・・しかし誤ったかも。
タッチタイピングを課せられたのだ!右手のひとさし指が私の主たる武器だったのに 他の指を駆使する戦いを私に強いるなんて 何たる拷問!今日はここまでが限界だ。お絵かきソフトで気持ちを表現します。

2013年7月19日金曜日

確かこの香りは・・

このところの猛暑にはやっぱりまいっていました。具体的に『○○をしなければ行けない』という状況下にないこの数日 自分の怠惰に悩まされつづけた。否描きかけの絵を詰めればよいのですが それも具体的なイメージの進展もないので ぐだぐだ ぐだぐだと・・
草刈でもすればいいのにとおっしゃる方々は周りにはいっぱいいるので その圧に負けて少しはやってみはしましたが その果てしなさと 暑さに 挫折。
その後雨もあってちょっと楽になったかな。やっと。
そんな今朝 日の光と共に微かに甘い香りが・・・。なんだったけかなー 庭に出てみてやっとわかりました。山百合でした。家の中には香りが強すぎて飾れないし 白い服などに花粉が付くととても厄介、そんなんで段々庭の片隅に追いやられて久しい。でもこの百合は私が子供のころからずっと庭周辺に咲いている。隣の石垣辺りからも何株も顔を出して初夏になると咲いているのだ。
匂いと共に子供のころの夏休みを思い出した。お祖母(ばあ)さんに『朝の涼しいうちに 宿題やっちゃいなんよ』と   ・・  60の今もやるべきことに悩まされているとは。

2013年7月11日木曜日

バラの苗を買いました

酷暑が続くこの数日、私は庭に水遣りに出る機会が増えた。新しい芽が育っていくのが嬉しくてならない。今までの人生ではあまりなかったことだと照れくさく思う。花がいっぱい咲く来春を楽しみに雑草取りもしている。・・・でもこれを言うのはやっぱりやや後ろめたい。あまりに当たり前の初老の反応だから。
絵を描く仕事場のドアを開けるとこのバラの一角がある、以前は金木犀の木が伸び放題伸びて陽が全くあたっていなかったが少し切ってみると、庭仕事の意欲が湧いてきた。『そうだ!夢の庭みたいにバラでも植えてみようかな。』
夢の庭とは上田市の無言館の近くで陶芸家小澤楽邦氏がやっている現代美術ギャラリー『夢の庭』ですが そこの庭は見事なバラ園なのです。イングリッシュオールドローズとか、よくわかりませんがすごいのです。  ちょっとまねしてみようかな。・・・というわけで 白いつるバラの苗を買ってみた。五月・・・。

2013年7月4日木曜日

ロマネスクの彫刻

11世紀から12世紀ころのフランス、スペイン、そしてロンバルディア(イタリア北部)に生まれたロマネスク文化はとても興味深い。いかにもヨーロッパ中世文化でいつ見ても魅かれるなー。二~三日前も図書館で思わずそんな本を手にとってしまった。
教会がそのころ一斉に建てられたという。西欧では古代ローマの文化はすでに滅びラテン語はローマ教皇の周辺だけだった。まともな書き言葉など持たぬゲルマンの諸民族は戦いながら住む地をもとめ 徐々にキリスト教を取り込んでいった。そしてやっとどうにか落ち着いてきた村々は石で教会を立て始めたのだ。彫刻はそんな教会の壁や柱を飾った。
平和を望む人々の気持ちの結晶が教会だったのだろう。だから そこに付属される彫刻はとても素朴で平和を求める意識がつよい。ローマギリシャの写実性など全くうかがわれず、一途に神を敬う精神性があり 私には快い。
それらのレリーフや彫刻は ある意味 アフリカンアートの民族彫刻や ガンダーラの仏像のように
名もなき職人が造り 多くの人々が拝み擦った。なにか何処とはいえない何処かにその多くの人々の心が入っているようだ。だから 美術館にも個人の邸宅にもあるべき場所としてそぐわない。
 今風のアートとは次元が全く違う気がする。薄っぺらな流れだ!


2013年6月29日土曜日

自転車

このところ 自転車をたのしんでいる。何年か前トライアスロンにはまった友人がいて その流線型のヘルメットや細いタイヤの自転車姿には どこかどこかで憧れていた。 しかしこの地飯田は海辺のサイクリングコースなどあるはずもなく 起伏の激しい車道ばかりだ。それに体力も自信がないし・・・。
 先月開催されたアートウエーブ展仲間の染色家の吉田さんがアシスト自転車に乗っていて その折ちょっと借りて乗ってみた。やー驚いた!かなりの上り坂を苦もなくこいで登っていけてしまうのだ。
かすかに暖めていて消えそうだった計画を実行に移すことにした。
 仕事場までの足に自転車を使おう(!)
少しばかり値段のはるのが残念だと思うものの この自転車は山坂の暮らしには持って来いだ。形もどっしりしていて軽薄さもない。
片道10キロ超の道をなんとか一時間程かけて通い始めた。景色は木々が萌える季節から 旺盛な活力を発揮する季節と移り 道々の匂いを感じている。丘の上では知らない街角や 路地を発見、新鮮だ。
とは言え この頃の雨には勝てず ガソリンを使うしかないんだが・・



2013年6月18日火曜日

銀座 月曜日

久々に銀座に出かけて 画廊めぐりする。わたしも参加している新耀展のオープニングもあって出かけたのだ。去年までは会社勤めとあってとても考えられない月曜の一日であった。
さて新耀展はいろいろな団体に属していたり個人作家だったり ビギナーだったり 大家だったりの寄せ集めのグループ展なのだがなぜか嬉しくて毎年出品している。去年長野の巡回展をしてメンバーとはだいぶ親しくなってきて今さら言うのも恥ずかしいが 顔と絵が一致するようになった。
この展覧会も若い人が居ない。どしてしまったんだろう。若者は?
画廊めぐりでは若い女性の個展を見た。表現的に素朴的に即興的に油絵の具で1メートルほどの大きさに裸婦 魚 ワニ などをラフに描き キャンバスをその形にそってきってそれを壁や床に止めてあった。言いたいことがあるようなないような緩めの感じで中途半端な気持ちにさせられた。・・・・無防備感?・・・
若い男はきっとこんな表現はやらないかなー・・ じゃーと身近で唯一知っている若者K君の作品を思い起こす。一般論として今の若者は結果を求められすぎていて表現の前に自分を定められた形にはめ込んでしまうんだろうか?
魚といえば 愛知の作家の個展を見た。大きな画面に(100~150号くらい)一匹の魚を描いていて色も形 大きさ(図案化されている)も嫌じゃなかった。・・唯なんで魚なの?という辺りがわたしには伝わらず思わず彼に声をかけてしまった。彼は愛知芸大出身の私とはほぼ同世代作家 しばらく絵描きとして空白期があった後の活動らしく ものすごいエネルギーを感じた。たぶんそれが作品の好感になっていたのだろう。と同時に次にどんな変化が現れるのか興味が沸いた。名刺を交換して帰ってきた。

2013年6月7日金曜日

ギャラリートーク後の考察

前回に引続きもう少しギャラリートークを考えて見たい。
『これは何!? どうしてこうなるの?』という驚きが作品になくては人は作者の声を聞きたいとは思わない。いったいどんな人がどんな考えを持って制作しているか知りたい。・・・これがギャリートークの意味だろう。
さて、なかなかこんな作品には出会えないが この展覧会(アートウエーブ50人展)にはあったと思う。
しかし応える側からすれば いざ自作について語ろうとしてもなかなか言葉にならないし 肝心なところは言葉にしたくない、とか理性的に解析したくないとか感じている作家がいるだろう。作品が不思議なほど作家は説明を拒む傾向がある。 かなりファジーなところでモノを作ろうとしているから無理からぬ。
私なども トーク中に自作の中にある麻布の形象について質問を受けて戸惑ってしまった。『自分の不確かな存在感』と応えたが ほんとにそうなのかも今もってわからない。昔どこかの本で見たコプト教の古文書のようなイメージで描き始めたけれど それがまさにコプトのパピルスとして伝わることなど私は望んでいるわけではない。もし望めば現代の技法は写真でもコピーでも使えばいいのだから。
未分化なボーっとした方向性にこそアートの本質的魅力があると思う。そこが解析できた時点でそのアートはアートの死かもしれない。だから作家たちは言葉嫌いなのか それとも意味不明の言葉を使いたがるのか・・・
ありふれた感傷や既存の思想はことばにはなじむがアートの興味ではない。
ギャラリートークの限界のようなものも感じつつ   次回へ。

2013年6月3日月曜日

ギャラリートーク どうかな

開催中のアートウエーブ飯伊50人展は何となくいい評判のようで とてもうれしい。個々の作品をリスペクトしながらも 全体としてさわやかな空気感があると言ってくれてるようだ。
さて、昨日の日曜午後は会場で有志によるギャラリートークが行われたが、私には個人ブログを読むようなつまらなさが気になった。私も参加者なので自戒を込めて書くが『こんな料理を食べておいしかった、とかどこどこでバラを嗅いだとか、そんなこと わざわざききたくないよ!』的な印象に終始した。
自分が大作家で 日常のちょっとしたことでもファンは聞きたがっているとでも錯覚したかのような軽いエッセイ風の話なんかしたって 聞きたい人は皆無だと思う。自意識過剰だっての!
じゃあ、何を話すべきなのか?何を話せるの?
たぶん上手い話なんかはできない。理性で絵を描いてるわけじゃあないからな。言葉にしたらつまんない事してんだ、きっとぼくらは。
そんな中 参加者の久保田氏の話は聞けてよかったと思った。彼は商品のパッケージデザインナーとして活躍している70歳(?)。小柄で若々しく朗らかな方だ。和菓子や料亭などの名前の文字デザインを展示していてその制作の裏側を語ってくれた。彼の作る字は商品であるため読めなくてはいけない、個性的でその品物(またはその示すもの)のイメージをより良くアピールしなくてはいけない、そのためその作品の裏には何百枚の試作があり葛藤があるという。そしていいものが出来ても、それが発注者によっていとも簡単に否定されることもあるという。コンペで書家と競ったこともあったそうだ。勝ったときは嬉しかったと語った。こんな苦しみを経てあの味のある字が出来ているのか!と軽いエッセイ風の話の後 複雑な思いに駆られた。パッケージデザインの字は洒落てて味があるが 部屋に飾って鑑賞はしない。一方鑑賞する絵のほうは軽いエッセイのような気持ちで描いていては とても見る人には伝わらないだろう。伝えるべきものにもっともっと向き合わなくてはならない。そしてそれを言葉にも出してみよう。

2013年6月1日土曜日

アートウエーブ飯伊50人展開催

昨年 立ち上げの時点で物議を醸した飯伊50人展が今年はこの時期に開催となった。飯田美術博物館で行われる現代の創造展のマンネリ性に一矢を酬いたいという思いが一部の人に毒となったようだが蓋を開けてみると一週間で2000人もの来客となった昨年の50人展であった。
今年は 時期をその展覧会にぶつけるという過激なことは避け少しマイルドに開催した。展示も昨年よりすっきりしたように思う。言いたいことも大してないのに大声で叫ぶような作品は少なくなって 自分の中を見つめようとしている気がする・・・そんな方向をすこし感じる。また若い人の作品も新鮮さがある。

2013年5月23日木曜日

浜松

ギャラリー風蘭にて個展が始まった。ここしばらく飯田から外に出ることが少なかったので展示が終わると急に小旅行気分に襲われた。昨日までの鬱がうそのようだ。ギャラリーオーナーの吉田さんの暖かなおもてなしこころと 心配だった個展としての展示が何とかなったからだろう。
初日あさ 『そうだ!海を見に行こう』と出かけたら 一番に会場に来られた客から電話をもらうこととなってしまった。あわてて画廊に向かったがもう帰られていた。
午後 とても丁寧に見ていただける客ふたりに出会えた。個展をする喜びの大きなひとつだ。地元浜松のかたで一人は作家 もう一人は普通の(作家ではないという意味)ご婦人(むかし油絵をちょっとだけやったことがあるといっていた)。実はこういうプロではない愛好家にいっぱい来てもらえて感じたことをいっぱい話してもらいたい。新鮮な言葉が私をはっとさせる。それが嬉しいのだ。
さて 作家の方には『キーファーお好きですか?』と聞かれた、
 が私はその作家を知らなかった。たぶんこうなると話が上手く進まないのだが 今は便利だ。スマホをさっと出して画像をすぐに見せてくれた。『あ~ そういえば 10年ほど前に軽井沢のセゾン美術館ででかい鉛の作品を見たかな』と記憶が鮮明になった。ドイツの冷たい感じと妙な物質感がすきだった。
一時赤土から離れたいと思ったとき 私はこの作家の影響下にあったのかなーと漠然と思った。

2013年5月15日水曜日

ギャラリー風蘭

来週の21日(火)から今月いっぱい浜松のギャラリー風蘭にて個展を開催いたします。昨年の夏から今日までの作品やく20点ほどを展示します。
この画廊のオーナー吉田さんとは三遠南信展で十年来お世話になっている方です。なかなか浜松方面には出かける機会がなくはじめての個展となります。またいい出会いが出来ることを期待して 展示の準備を進めています。ぜひおでかけすださい。
尚 26日日曜日は画廊がお休みです。ご注意を!

2013年5月6日月曜日

立石の南無祭

地元立石の三人展が昨日終わった。正直 売れ線の作家といっしょの展覧会はつらい。なぜかを事細かに書くのも勘弁・・・
しかし、ギャラリーオーナーや地元の協力スタッフたちとの交流は実に楽しい。打ち上げには音楽家K氏を初めノリのいい人たちが夜遅くまで会を盛り上げてくれた。この楽しさがこの展覧会への参加のいちばんの理由なのかもしれない。日本画のM氏も加わってくれ近況を伝えてくれた。女子美の准教授にこの四月からなったそうだ。昨年夏に会ったときはバイトが忙しく平均睡眠時間が二時間だといって辛そうだったが もう安心だ。
さて自分のこととなると なかなか報告できることもなく(強いて言えば 定年退職で時間が少し増えたことか?)残念だったが 彼に今回の絵を褒めてもらえて嬉しかった。頑張って続けていくことが大事なんだ、と改めて自分に言う。実はこの半月ほどの低温や霜の害で この地の特産物である柿が全く花芽をつけず全滅との事であった。柿の収入がゼロになってしまうのだ。そんな苦難を背負いながらこの展覧会やギャラリー南無祭を盛り上げていただいた地元の方々のことを思うと 自分の絵が売れなかったとうらぶれてはいられなかった。

2013年4月23日火曜日

イタリア美術と戦国時代

フレスコ画の静謐性が好きだった。ピエロデッラフランチェスカとか・・レオナルドやミケランジェロ以前の美術がだんだん好きになっていった。
それは私のイタリア時代の興味のひとつだった。 このごろ『一個人』という雑誌を買ったらそのあたりの美術史詳細が(当時一生懸命イタリア語の辞書を引きながら勉強したんだが、)上手くまとめてあってびっくり。西洋美術の粋の部分といえる時代だ。
シエナからフィレンツェに華やかさが移っていくころイタリアルネッサンスは最盛期となっていった。有名なメジチ家が芸術家たちを庇護した時代である。しかし政治史をほとんど知らなかった私はチェザレー ボルチアの話を今度読んで 嗚呼あの時代は戦国時代だったんだなーと改めて思った。まさに信長や秀吉の時代に利休や等伯 狩野派が天才を発揮したのと同じだったんだ。傍らで策謀が渦巻き 人ゝを殺しあっていた時代だったんだ。(そこにはちょうど100年の時差があったが どうしてそんなに似ているんだろう。)
1400年終わりから1500年にかけてたった10余年の間 彼チェザレーボルチアは法王アレッサンドロⅥの息子として教皇領をフィレンツェやベネツィア ミラノ そしてフランス スペインと戦いながらエミリア地方まで拡大して行ったが やがて父の死と共に没落して行った。レオナルドダヴィンチも一時彼の部下で土木関係に力を振るったそうだ。
 ベネチィア派からスペイン王家へ絵の主流が移っていくとだんだん絵がパワーを失っていった。そして世界は大航海時代を経 日本にもヨーロッパ文化が伝わった。信長の時代だった。


2013年4月22日月曜日

南無三人展’13

木こり生活、稲作農業者(初歩)、と遽しく過ぎて 今度は平面作家として発表の時が迫った。勤め人から解放されてあっという間に40日が流れていった。余裕のはずの三人展がじつはやばい状況にある。今度のギャラリー南無の展覧会は日本画の宮島氏が抜けて三人展と言うことになり 来週の28日は搬入なのだ。去年は漆にはまり 形にならぬまま発表 そして不本意な展示となってしまった。その漆をもう少し自分の形にして赤土と組み合わせたかったが、今度は赤土の段階で先に進めず またまた中途半端な感じだ。まあ、あせらずにいこう。あせらずに!
このところ ソウ思うことにした。
勤め人のころの毎日着実にすこしずつ生産する、という感覚は 今思うとすごい。きっちり8時間分の生産はするんだから!  だが作家の生産(?)というか創作は無駄がやたらと多い。この40日間を考えるとある程度今の結果につながった創作時間は数時間かもしれない。いや、これさえ 後になって否定される失敗作=無駄時間かもしれない。
そんなわけで 時間 効率 真面目 勤勉 を今私は自分の頭から遠ざけている最中なのだ。
しかし 周りは 私の日々を この怠け者と避難の目で見る。春の田園風景は ある意味辛い。

2013年4月16日火曜日

発芽確認

第一胃はミノ、第二胃はハチノス、第三胃がセンマイ、これらは牛の反芻のための胃だと言う。ちなみに第四胃(アギラ?)の役目が消化らしい。トリッパというイタリア料理をぜひ作ってみたいとしばらく前から飯田の肉屋さんを見て回っている。ハチノスを使っていることは知っていたのでそれを探すが 白いハチノスがナカナカ売っていない。黒いのなら時々手に入ると言ってくれた店もあった。『え!白いのや 黒いのがあるの?』・・・しかたなく焼肉用のミノで代用しようかと買って家に戻るが、妻に気持ち悪いから止めてくれといわれやむなく頓挫。
 ちょっと寒い日が続いていたので稲の苗の具合を覗いて見た。籾播きから10日健気に芽を出していた。私がハチノスで頭がいっぱいのころ 苗は必死に寒さに耐え(実際 苗床の田に薄氷がはった朝があったと 母が言っていた。)水のみで芽を出したのだ。

2013年4月9日火曜日

苗床

桜の満開は一週間ほど前だったかな、今年は。
さて我が家の土手にある花桃がほころんできたので 稲の籾まきを始めねばならない。と言ってみたが素人の私はほとんど一から年老いた父から教えを受けなくてはならない。60になろうとしている私でも小僧っ子扱いだ。
外の日差しは思ったより強く 背中にあびると何となく元気になる。明るさが欝的な思考を吹っ飛ばしてくれて救いだ。(今月末の南無の展覧会の準備不足があってもだ!。)
苗床は田んぼにたっぷり水をつけ 籾をまいた専用箱をそこに並べるのだ。頑固な老人に怒られながらやっと昨日土を盛って土台が出来た。イヤハヤ農業は奥が深いやら ややこしいやら。でも ちょっと泥絵の世界?
明日朝100個の箱を並べ シートで保温すればそれでよい。その後は微妙な温度管理で発芽させ15センチほどの苗に育てる。放っておいてもだめのようで水の量や気温を一月間神経質に管理しなくてはいけない。
ややこしや。春の気持ちよさがなければとてもできない、と弱気になったりの日々である。
 

2013年4月2日火曜日

4月1日

このところとても一日が早い。会社勤めのころは午前中が終わるためには11時の重い山を越えなければならなかった。そして3時の休み前は長い午後の勤務、4時半まで来るとどうにか 今日を終われそうな気がして安心したものだった。
それが、前にも書いたが夏休みの小学生のようにあっという間に日々が過ぎていく。彼らのように絵日記を描くというブレーキさえないので 毎日が尚いっそう転がるように過ぎていってしまう。
まあ こんな日を夢見ていたんだから 喜ぶべきはずが ちょっと変な感じだ。昨日の夜のニュースは 新年度が始まり 新社会人のための入社式の様子が映し出されていた。
エープリルフールのニュースだと言ってほしかった。

2013年3月24日日曜日

50人の展覧会

グループ展の呼びかけ(人選)については いつも難しい思いをする。そのグループ展が何処を目指しているのかを突き詰められるのだから。個人としての目的意識と 何人かの実行委員の総意とはなかなかぴったり一致を見ない。
 中川村でこの2~3年5月の連休に開催される≪アトリエ開放展≫は若い人たちのパワーを感じて評判のいい展覧会だ。展示場所がそれぞれの作家の仕事場で 同時多発的な催し、作品もかなり多種多様で 既成概念で鑑賞しようと思うと面食らってしまうと思う。 ゆったりとした時間の中で体感しないとたのしさは伝わらないかもしれない。人は多く訪れ人気を表している。
飯田の≪現代の創造展≫は全く既成概念の中の展覧会で『一地方のご趣味のよい方々』のためのものであった。その先細り感はヒシヒシと感じられ 何とかしなくてはと私たちは焦った。 今年はコンテンポラリー部門を設けたがまだまだほんの第一歩にすぎない。
 昨年3月 同じ理由で≪飯伊50人展≫という展覧会を有志で開催した。一部の作家たちはネガティブに捉えていたが来場者は意外に多く一週間で2000人弱だったときく。
 美術は生きていくには欠かせないものだ。その思いから中川村の若い作家たちは何か何かを表現しようとしている、それは手で掴もうとするとするりと逃げる液体のようなものだ。
どうも大人たちの多くはそこらが理解できていなくて すでに価値の固まった美術(たとえば地元のヒーロー菱田春草的な・・)がアートと考えている。
このあたりの価値の違いをどう捉えてどういう見解で私たちは≪50人展≫をリニューアルしていくべきか?ああ 今夜は実行委員会だ。

2013年3月12日火曜日

雑木林で

長年望んでいた木こり生活が始まった。とは言いすぎかな。
会社勤めに先週ピリオドをうったので いよいよ時間を自分の思いどうり使えるんだと喜んでいる。まるで夏休みに突入した小学生のよう。  終わりのないサマーヴァケイション・・・(少し悲しい響きがあるかな)
すでに3月なので木を切るには少し遅い。だが仕事部屋のまきストーブの燃料を確保しておかないと来年寒くて困るだろうからと マキノキ(どんぐりのなる木で・・正式名称はしらない。木こりはこれから学んでいくのだ。)を2本切ることをもう去年のうちから決めていた。その木の根元は両手を回してもとても抱えきれない大物だ。子供のころのかすかなかすかな記憶にのこっているマキノキが近くにあったがそれと同じくらいなので4~50年の樹齢だろうか。まあそんな感傷にひたっていてはハードな木こり生活は出来ない。
早速チェーンソウのうなり声に気持ちもアグレッシブになりばっさりと切り倒した。
陽のあたる雑木林の斜面で体を動かす嬉しさ、十代のころお祖父さんの仕事を手伝ったりしたころから ずーっとこころが落ち着くことを知っていたのだ。
地下足袋の足でかさかさと落ち葉を踏みしめ 大きく深く息を吸う。・・・切ったマキノキの匂いはちょっとだけウンコのにおい・・・

2013年2月23日土曜日

南島宏氏の講演を聞く

冬ばれの午後  天竜川に沿って目的地天龍村文化センターに向かった。川にせまる山々は裸の木々と所々に残雪、あー南島金平さんの絵だなーと思いながら約一時間、急斜面にへばりつく様に家々が並ぶ。天龍村だ。
さて、宏氏はその金平さんの三男で ベネチアビエンナーレなどに関わるなど活躍中の美術評論家だ。その彼が地縁で講演をすると聞いて駆けつけたのだが、なるほど興味深い話であった。
このあたりでは多少は知れた画家である金平氏でも東京の画壇からすれば名もなき一地方画家 その彼の作品が数年前都美術館落成記念展覧会に出品された。それは一地方でこつこつと真実を模索し続けて来た 決して脚光とは縁遠いまじめな画家の生き様として、またそんな画家が全国にはいっぱいいたという例としてであったそうだ。『かまど風景』という絵の写真はやはりそのストーリーとして感動的であり 良質の絵だった。
金平氏が教師として天龍村赴任当時の日記に『ここには何もない。しかしすべてを教えてくれる自然がここにはいっぱいある』と書いていたそうだ。
つぎに宏氏は熊本美術館オープニングの写真を見せてくれた。中央に白い熊さんの帽子をかぶった目の大きな赤ちゃんの人形が妙に金属感の強い鎖の付いたブランコに載っている。バックは白のムームー風の衣装と頭に白い布をかぶった人物がいっぱい立っている。人形のあどけなさを取り囲むこの緊張感と異様さ、それは氏が熊本で目の当たりにしたハンセン氏病患者の叫びだったのだ。堕胎を強制された患者はこの人形と共に暮らしてきたという。
美術は一部の人たちの『いいご趣味』ではない。いわれなき不条理を生きてこなければならなかった人々の心を 私たちは彼らのつくったつぼなどを通して感じることができる。それらは美術として作られたのではなく 何かに繋がっていなければ彼らはつらくて生きられなかったというのだ。
・・・・アートは深い。そしてそのアートの本質を語ろうとしている宏氏の活動は 心強い。

2013年2月19日火曜日

ギャリートーク

飯田美術博物館で開催中の『現代祖創造展』もいよいよあと一週間となったが、この日曜日(17日)は有志によるギャラリートークを開催した。友禅染めの大蔵氏 立体の山内氏 小麻さん
現代書の石原氏 平面の高橋氏 そして私の順で15分から20分のトークであった。  聞いてくれた人たちは20人程度だったか・・少し寂しい感じだったが皆熱心な目であった。 
 普段親しい作家仲間だが改めて聞くそれぞれのトークは新鮮であった。具体的な形の少ない作品の裏にはとても興味深いストーリーが秘められていた。『なるほどなーそれがこの作品になるのか!』と。

具象画はその絵がすべてを語っているが説明的で押し付けがましい。それに対し抽象画は自由感はあるが何を描いているの?の疑問の後 絵に入っていけない残念感がある。しかし、自作の前の作家の言葉は時としてうれしい道先案内となる。豊かな時を過ごせた。
≪絵がすべてを語るべき≫という不文律をどう解釈していけばいいんだろう。

2013年2月17日日曜日

山尾三省“太郎に与える歌”

山尾三省の息子に書いた詩を読む。
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 [太郎に与える詩]
十三歳になった太郎
やがてはっきりと私のものでなくなっていくお前に
父親の私はひとつの歌を与える
この詩はやがてお前の人生を指し示す秘密の力となるであろう
父は常に貧しいものであったが
その貧しさには黄金色の誇りがあった
お前の住む家は 部落で一番みすぼらしく
屋根は破れ 雨漏りがし 時々 母はそのために泣いた
お前の住む家には 車もなく 電話もなく
カラーテレビもなく それどころかしばしばお金もなかった
時々 母はそのために苦労した
林業で暮らすこの部落でも
すべての家が車を持ち すべての家に電話か有線電話があり
カラーテレビが備わっている時代だった
武田武士の流れを汲む伝統に住んでいる部落の家々は
門構えもどっしりとし 人が住むにふさわしい格式と品位を持ち 静に落ち着いて
春には花々に埋まるようになり
夏には深い緑に沈むように
秋には栗や柿の実がしっかりと実り
冬には柚子の実の黄金色に雪が降った
父はお前が小学一年生のときに よそ者として流れ者として
廃屋になった一軒家を借りて この部落に入ってきた
東隣りは 真光禅院という大きなお寺だった
西隣りは 五日市憲法という土民自治のためのめずらしい古書が発見されたお蔵だった
父は廃屋に手を加えた
父は喜ばしげに屋根をなおし 腐った畳を入れ替え 破れた戸を修理した
けれども いくら手を加えてもその家は世間の家と同じような家にはならなかった
何故かというと
家というものは 雨露がしのげ 暑さ寒さがしのげるだけのものでよい という父の思想と
母の一歩譲った同意がそこにあったからだ
部落の人たちは そんな家に満足して住んでいる私たちを見て 笑っていた
父にはその笑いがまぶしかった
だが子供のお前には その笑いは棘だっただろう
お前がブルージーンズを嫌って 黒のサージの学生ズボンで学校に行くと言い始めた時
お前が母の手で頭を刈られるのを嫌い 町の床屋に行きたいと言い始めた時
父は お前の心に刺さった棘をのぞき見た
 <中略>
父の手は だから
お前の心に突き刺さった棘を抜いてあげることが出来ぬほど弱いものではない
だが その棘と正しく戦うことは お前の人生に課せられた最初の手強い門なのだ
 <中略>
十三歳になった太郎
やがてはっきりと私のものではなくなっていくお前に
父親の私はひとつの歌を与える
お前の若い胸に突き刺さった棘は お前自身の力で抜き取れと
父は喜ばしげに 決意をこめてうたうのだ

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高校のころ東京に憧れ そして挫折して故郷に帰り そんな中で何かこの効率中心主義の社会に異議を感じている還暦男のこの私は この詩に考えさせられる。




2013年2月3日日曜日

どこか柔らかで優しい作品たち

飯田市美術博物館にて『現代の創造展』の展示が昨日終わっていよいよ本日オープン。新しいジャンル『コンテンポラリー』がどのように来館者に伝わるのだろう・・
この会の先輩で“IIDA-B-KEN”の西村誠英氏から先日お手紙を頂戴した。彼はこの展覧会の立ち上げ当時から関わって発足当時の流れとその問題について書いてくれた。そしてその問題に対する会との意識の差が彼を脱会に至らせたそうだ。
その会とは『飯伊美術家美術集団の会』というもので大きくこの地の作家を括ったものらしい。組織はかなり曖昧であるが 今でもこの会が創造展を開催しているようだ。(私は実行委員会のメンバーだがこの会に入った記憶はない)
さて、 西村氏こう語っている。---現代美術の企画など活動していた私がなぜその会に入ったのか?会の構成メンバーである南信美術展やリア美展の作家たちは公募展に出品しながらも相互に交わり作品の相互批判を真摯に行っていたから。しかしその後 入選 受賞 会員 といった外的現実が各々の創造精神を失わせ 中央の価値観に飲み込まれていってしまった。もはやこうなると芸術に関する本質論は語ることはがばかられ ただただ自分の作品が公の場に如何に展示されるかが重要となってしまった。---
まさに私たちが今感じている問題が西村氏をも悩ましていたのだ。
150人余の作家たちを展示するこの展覧会 残念だが多くの作家たちは自由に作品を創り自由に発表することよりも組織の中の自分を大事にすることを良しとしている。こんな作家の姿勢を見ている若者たちはそんなアートに憧れなど持ちようがないではないか!
私はコンテンポラリーと名づけたこのジャンルにどこかで見たような斬新さ(?)を求めているわけではない。少なくとも自分を取り巻く組織が自分を規制しているのならそこから自由になって自分の言いたい自分の言葉を発しようと言っているのだ。自分の価値を認めて自分を高めていこう と言うものなのだ。
昨日展示を終えて感じたのは おとなしい感じだな、と言うことだった。でもそれは否定的に言っているのではない。若い作家世代は優しさに敏感なのだ。これは西村氏世代にはなかった価値観のように思う。希望はあるぞ!と思った。

2013年1月26日土曜日

励ましはビックリマーク

現代の創造展(飯田下伊那の作家による)の第13回がこの2月3日(日)より3週間 飯田美術博物館にて開かれる。そのポスターを見ていて僕は励まされる思いになっている。そのポスターの中央にビックリマークが大きくデザインされていてそのすぐ横にコンテンポラリーと書かれている。このコンテンポラリーと言うのは 今年紆余曲折の末 新たに開設された 日本画、洋画、彫刻、工芸、版画、書につづく新ジャンルなのだ。
なぜ開設しなければならなかったのか?
今まで何度か書いてきたが 端的に言えばこの展覧会の組織が機能不全を起しているがそれを改革していけないばかりか、その問題意識を抱く作家も少なくなっているという現実がある。
二三日前の地方紙『南信州』に陶芸家水野英男翁がインタヴューにこたえて飯田のアートの現状を叱っていた。絵を描く人間は増えたがそれをリードする作家たちが現状維持派でチャレンジし開拓していこうと言う気概がない、昔は絵描きのけんかはしょっちゅう見たが・・・云々。
大した権威もないのだがこの展覧会に出品することがステータスでそのために選出を一人でも多くにと配慮する委員が多いが、この展覧会はそんな風に風船のように膨らんでいくことが目指す方向ではない。アートに真剣に立ち向かっている作家の作品を一堂に会して 今の何にどう立ち向かっているのかを感じ合い そして考え 各々が研鑽しようというもののはずだ。それはアート愛好者にとっても望むところだ。水野翁が言うようにアートの底辺が広がったことは喜ぶべきことだがトップに立とうとする人たちがアマチュアと同じ精神状態では困る。作家たるもの『アートとは?』の問いに常に欠き立てられていなければならない。その姿勢が処世のため希薄になっていてはだめだ。
この辺りの思いから 改革を望まない日本画、洋画、工芸、書とは独立した形でコンテンポラリーというジャンルを作ったのだ。 今年のポスターは おそらくI氏のデザインだろう、僕らの思いを感じ取ってくれて このデザインになったに違いない。

2013年1月13日日曜日

ラジオから『赤頭巾ちゃん・・』

若いころ流行りで読んだ本に『赤頭巾ちゃん気をつけてね』があった。思い出すだけで首をすくめてしまうことがある。その小説が映画化された後 高校のクラスマッチでネックに赤いラインのはいった白いTシャツを着て やったことのないテニスにわたしは出たのである。数人の女子もそれ風のテニスの格好だった。(さすがにミニのスコートではなかったが)彼女らの姿を見ただけで嗚呼!と自分を恥じた。当時は反体制の風潮が強く この軟派な趣向は友との話題にすら乗らない恥ずかしい事だった。豊かさとか都会性とかへ一人憧れていたのだった。
こんなミーハーな私だったから 前述の山尾三省のような消費社会に反旗を翻し厳しい暮らしに入っていく覚悟はもうとうなかった。私の地区の家はほとんど質素な零細農家で、高校卒業後東京の大学にはそうそう簡単に行けなかったから 豊かな都会の青年のナイーブさに密かに憧れをいだいていたのだ。田舎のナイーブな少年はその後 現実を知ることとなった。若気の至りだった。

2013年1月5日土曜日

サンセイという人

今年は巳年、あまり触れたくないが私は還暦となるんだ。
暮れにその還暦仲間3人で酒を飲んだ。そのうちの一人Hが屋久島に行ってきた話しをしてくれた。彼は東京の大学生活をすぐに辞し 田舎に帰って農業人となっている。
彼が屋久島に行くのはもう2回目かな。彼が尊敬する詩人が暮らした島だということはいつか聞いていた。
その彼に本を三冊借りてこの正月に読もうと思った。その詩人の本だ。そういうわけで還暦となる私は 長年勤めた会社をやっと(?)辞めるのだが 会社勤めを始めたころは自由な生き方が先細って行くことへの葛藤があった。しかし貨幣経済のメカニズムに身を投げ込まねば とても生き永らえない社会だと感じサラリーマンとなった。
わたしたちの二十歳のころは まだその貨幣経済メカニズムに如何に絡め撮られずに生きていけるか探っているひとびとがいた。私の理解の範囲ではその山尾三省という詩人もその方向の人だと思っていたから、いま改めて読んでみたくなったのだ。このバブルや失われた20年という経済の荒波の後に。
そしてHは 今もきゅうりを作り 本を読み 酒をのむ。
サラリーマンとして兎にも角にもピリオドをうつ私は 彼の生きる重さをヒシヒシと横で感じていた。