2013年1月26日土曜日

励ましはビックリマーク

現代の創造展(飯田下伊那の作家による)の第13回がこの2月3日(日)より3週間 飯田美術博物館にて開かれる。そのポスターを見ていて僕は励まされる思いになっている。そのポスターの中央にビックリマークが大きくデザインされていてそのすぐ横にコンテンポラリーと書かれている。このコンテンポラリーと言うのは 今年紆余曲折の末 新たに開設された 日本画、洋画、彫刻、工芸、版画、書につづく新ジャンルなのだ。
なぜ開設しなければならなかったのか?
今まで何度か書いてきたが 端的に言えばこの展覧会の組織が機能不全を起しているがそれを改革していけないばかりか、その問題意識を抱く作家も少なくなっているという現実がある。
二三日前の地方紙『南信州』に陶芸家水野英男翁がインタヴューにこたえて飯田のアートの現状を叱っていた。絵を描く人間は増えたがそれをリードする作家たちが現状維持派でチャレンジし開拓していこうと言う気概がない、昔は絵描きのけんかはしょっちゅう見たが・・・云々。
大した権威もないのだがこの展覧会に出品することがステータスでそのために選出を一人でも多くにと配慮する委員が多いが、この展覧会はそんな風に風船のように膨らんでいくことが目指す方向ではない。アートに真剣に立ち向かっている作家の作品を一堂に会して 今の何にどう立ち向かっているのかを感じ合い そして考え 各々が研鑽しようというもののはずだ。それはアート愛好者にとっても望むところだ。水野翁が言うようにアートの底辺が広がったことは喜ぶべきことだがトップに立とうとする人たちがアマチュアと同じ精神状態では困る。作家たるもの『アートとは?』の問いに常に欠き立てられていなければならない。その姿勢が処世のため希薄になっていてはだめだ。
この辺りの思いから 改革を望まない日本画、洋画、工芸、書とは独立した形でコンテンポラリーというジャンルを作ったのだ。 今年のポスターは おそらくI氏のデザインだろう、僕らの思いを感じ取ってくれて このデザインになったに違いない。

2013年1月13日日曜日

ラジオから『赤頭巾ちゃん・・』

若いころ流行りで読んだ本に『赤頭巾ちゃん気をつけてね』があった。思い出すだけで首をすくめてしまうことがある。その小説が映画化された後 高校のクラスマッチでネックに赤いラインのはいった白いTシャツを着て やったことのないテニスにわたしは出たのである。数人の女子もそれ風のテニスの格好だった。(さすがにミニのスコートではなかったが)彼女らの姿を見ただけで嗚呼!と自分を恥じた。当時は反体制の風潮が強く この軟派な趣向は友との話題にすら乗らない恥ずかしい事だった。豊かさとか都会性とかへ一人憧れていたのだった。
こんなミーハーな私だったから 前述の山尾三省のような消費社会に反旗を翻し厳しい暮らしに入っていく覚悟はもうとうなかった。私の地区の家はほとんど質素な零細農家で、高校卒業後東京の大学にはそうそう簡単に行けなかったから 豊かな都会の青年のナイーブさに密かに憧れをいだいていたのだ。田舎のナイーブな少年はその後 現実を知ることとなった。若気の至りだった。

2013年1月5日土曜日

サンセイという人

今年は巳年、あまり触れたくないが私は還暦となるんだ。
暮れにその還暦仲間3人で酒を飲んだ。そのうちの一人Hが屋久島に行ってきた話しをしてくれた。彼は東京の大学生活をすぐに辞し 田舎に帰って農業人となっている。
彼が屋久島に行くのはもう2回目かな。彼が尊敬する詩人が暮らした島だということはいつか聞いていた。
その彼に本を三冊借りてこの正月に読もうと思った。その詩人の本だ。そういうわけで還暦となる私は 長年勤めた会社をやっと(?)辞めるのだが 会社勤めを始めたころは自由な生き方が先細って行くことへの葛藤があった。しかし貨幣経済のメカニズムに身を投げ込まねば とても生き永らえない社会だと感じサラリーマンとなった。
わたしたちの二十歳のころは まだその貨幣経済メカニズムに如何に絡め撮られずに生きていけるか探っているひとびとがいた。私の理解の範囲ではその山尾三省という詩人もその方向の人だと思っていたから、いま改めて読んでみたくなったのだ。このバブルや失われた20年という経済の荒波の後に。
そしてHは 今もきゅうりを作り 本を読み 酒をのむ。
サラリーマンとして兎にも角にもピリオドをうつ私は 彼の生きる重さをヒシヒシと横で感じていた。