2013年2月23日土曜日

南島宏氏の講演を聞く

冬ばれの午後  天竜川に沿って目的地天龍村文化センターに向かった。川にせまる山々は裸の木々と所々に残雪、あー南島金平さんの絵だなーと思いながら約一時間、急斜面にへばりつく様に家々が並ぶ。天龍村だ。
さて、宏氏はその金平さんの三男で ベネチアビエンナーレなどに関わるなど活躍中の美術評論家だ。その彼が地縁で講演をすると聞いて駆けつけたのだが、なるほど興味深い話であった。
このあたりでは多少は知れた画家である金平氏でも東京の画壇からすれば名もなき一地方画家 その彼の作品が数年前都美術館落成記念展覧会に出品された。それは一地方でこつこつと真実を模索し続けて来た 決して脚光とは縁遠いまじめな画家の生き様として、またそんな画家が全国にはいっぱいいたという例としてであったそうだ。『かまど風景』という絵の写真はやはりそのストーリーとして感動的であり 良質の絵だった。
金平氏が教師として天龍村赴任当時の日記に『ここには何もない。しかしすべてを教えてくれる自然がここにはいっぱいある』と書いていたそうだ。
つぎに宏氏は熊本美術館オープニングの写真を見せてくれた。中央に白い熊さんの帽子をかぶった目の大きな赤ちゃんの人形が妙に金属感の強い鎖の付いたブランコに載っている。バックは白のムームー風の衣装と頭に白い布をかぶった人物がいっぱい立っている。人形のあどけなさを取り囲むこの緊張感と異様さ、それは氏が熊本で目の当たりにしたハンセン氏病患者の叫びだったのだ。堕胎を強制された患者はこの人形と共に暮らしてきたという。
美術は一部の人たちの『いいご趣味』ではない。いわれなき不条理を生きてこなければならなかった人々の心を 私たちは彼らのつくったつぼなどを通して感じることができる。それらは美術として作られたのではなく 何かに繋がっていなければ彼らはつらくて生きられなかったというのだ。
・・・・アートは深い。そしてそのアートの本質を語ろうとしている宏氏の活動は 心強い。

2013年2月19日火曜日

ギャリートーク

飯田美術博物館で開催中の『現代祖創造展』もいよいよあと一週間となったが、この日曜日(17日)は有志によるギャラリートークを開催した。友禅染めの大蔵氏 立体の山内氏 小麻さん
現代書の石原氏 平面の高橋氏 そして私の順で15分から20分のトークであった。  聞いてくれた人たちは20人程度だったか・・少し寂しい感じだったが皆熱心な目であった。 
 普段親しい作家仲間だが改めて聞くそれぞれのトークは新鮮であった。具体的な形の少ない作品の裏にはとても興味深いストーリーが秘められていた。『なるほどなーそれがこの作品になるのか!』と。

具象画はその絵がすべてを語っているが説明的で押し付けがましい。それに対し抽象画は自由感はあるが何を描いているの?の疑問の後 絵に入っていけない残念感がある。しかし、自作の前の作家の言葉は時としてうれしい道先案内となる。豊かな時を過ごせた。
≪絵がすべてを語るべき≫という不文律をどう解釈していけばいいんだろう。

2013年2月17日日曜日

山尾三省“太郎に与える歌”

山尾三省の息子に書いた詩を読む。
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 [太郎に与える詩]
十三歳になった太郎
やがてはっきりと私のものでなくなっていくお前に
父親の私はひとつの歌を与える
この詩はやがてお前の人生を指し示す秘密の力となるであろう
父は常に貧しいものであったが
その貧しさには黄金色の誇りがあった
お前の住む家は 部落で一番みすぼらしく
屋根は破れ 雨漏りがし 時々 母はそのために泣いた
お前の住む家には 車もなく 電話もなく
カラーテレビもなく それどころかしばしばお金もなかった
時々 母はそのために苦労した
林業で暮らすこの部落でも
すべての家が車を持ち すべての家に電話か有線電話があり
カラーテレビが備わっている時代だった
武田武士の流れを汲む伝統に住んでいる部落の家々は
門構えもどっしりとし 人が住むにふさわしい格式と品位を持ち 静に落ち着いて
春には花々に埋まるようになり
夏には深い緑に沈むように
秋には栗や柿の実がしっかりと実り
冬には柚子の実の黄金色に雪が降った
父はお前が小学一年生のときに よそ者として流れ者として
廃屋になった一軒家を借りて この部落に入ってきた
東隣りは 真光禅院という大きなお寺だった
西隣りは 五日市憲法という土民自治のためのめずらしい古書が発見されたお蔵だった
父は廃屋に手を加えた
父は喜ばしげに屋根をなおし 腐った畳を入れ替え 破れた戸を修理した
けれども いくら手を加えてもその家は世間の家と同じような家にはならなかった
何故かというと
家というものは 雨露がしのげ 暑さ寒さがしのげるだけのものでよい という父の思想と
母の一歩譲った同意がそこにあったからだ
部落の人たちは そんな家に満足して住んでいる私たちを見て 笑っていた
父にはその笑いがまぶしかった
だが子供のお前には その笑いは棘だっただろう
お前がブルージーンズを嫌って 黒のサージの学生ズボンで学校に行くと言い始めた時
お前が母の手で頭を刈られるのを嫌い 町の床屋に行きたいと言い始めた時
父は お前の心に刺さった棘をのぞき見た
 <中略>
父の手は だから
お前の心に突き刺さった棘を抜いてあげることが出来ぬほど弱いものではない
だが その棘と正しく戦うことは お前の人生に課せられた最初の手強い門なのだ
 <中略>
十三歳になった太郎
やがてはっきりと私のものではなくなっていくお前に
父親の私はひとつの歌を与える
お前の若い胸に突き刺さった棘は お前自身の力で抜き取れと
父は喜ばしげに 決意をこめてうたうのだ

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高校のころ東京に憧れ そして挫折して故郷に帰り そんな中で何かこの効率中心主義の社会に異議を感じている還暦男のこの私は この詩に考えさせられる。




2013年2月3日日曜日

どこか柔らかで優しい作品たち

飯田市美術博物館にて『現代の創造展』の展示が昨日終わっていよいよ本日オープン。新しいジャンル『コンテンポラリー』がどのように来館者に伝わるのだろう・・
この会の先輩で“IIDA-B-KEN”の西村誠英氏から先日お手紙を頂戴した。彼はこの展覧会の立ち上げ当時から関わって発足当時の流れとその問題について書いてくれた。そしてその問題に対する会との意識の差が彼を脱会に至らせたそうだ。
その会とは『飯伊美術家美術集団の会』というもので大きくこの地の作家を括ったものらしい。組織はかなり曖昧であるが 今でもこの会が創造展を開催しているようだ。(私は実行委員会のメンバーだがこの会に入った記憶はない)
さて、 西村氏こう語っている。---現代美術の企画など活動していた私がなぜその会に入ったのか?会の構成メンバーである南信美術展やリア美展の作家たちは公募展に出品しながらも相互に交わり作品の相互批判を真摯に行っていたから。しかしその後 入選 受賞 会員 といった外的現実が各々の創造精神を失わせ 中央の価値観に飲み込まれていってしまった。もはやこうなると芸術に関する本質論は語ることはがばかられ ただただ自分の作品が公の場に如何に展示されるかが重要となってしまった。---
まさに私たちが今感じている問題が西村氏をも悩ましていたのだ。
150人余の作家たちを展示するこの展覧会 残念だが多くの作家たちは自由に作品を創り自由に発表することよりも組織の中の自分を大事にすることを良しとしている。こんな作家の姿勢を見ている若者たちはそんなアートに憧れなど持ちようがないではないか!
私はコンテンポラリーと名づけたこのジャンルにどこかで見たような斬新さ(?)を求めているわけではない。少なくとも自分を取り巻く組織が自分を規制しているのならそこから自由になって自分の言いたい自分の言葉を発しようと言っているのだ。自分の価値を認めて自分を高めていこう と言うものなのだ。
昨日展示を終えて感じたのは おとなしい感じだな、と言うことだった。でもそれは否定的に言っているのではない。若い作家世代は優しさに敏感なのだ。これは西村氏世代にはなかった価値観のように思う。希望はあるぞ!と思った。