2013年6月29日土曜日

自転車

このところ 自転車をたのしんでいる。何年か前トライアスロンにはまった友人がいて その流線型のヘルメットや細いタイヤの自転車姿には どこかどこかで憧れていた。 しかしこの地飯田は海辺のサイクリングコースなどあるはずもなく 起伏の激しい車道ばかりだ。それに体力も自信がないし・・・。
 先月開催されたアートウエーブ展仲間の染色家の吉田さんがアシスト自転車に乗っていて その折ちょっと借りて乗ってみた。やー驚いた!かなりの上り坂を苦もなくこいで登っていけてしまうのだ。
かすかに暖めていて消えそうだった計画を実行に移すことにした。
 仕事場までの足に自転車を使おう(!)
少しばかり値段のはるのが残念だと思うものの この自転車は山坂の暮らしには持って来いだ。形もどっしりしていて軽薄さもない。
片道10キロ超の道をなんとか一時間程かけて通い始めた。景色は木々が萌える季節から 旺盛な活力を発揮する季節と移り 道々の匂いを感じている。丘の上では知らない街角や 路地を発見、新鮮だ。
とは言え この頃の雨には勝てず ガソリンを使うしかないんだが・・



2013年6月18日火曜日

銀座 月曜日

久々に銀座に出かけて 画廊めぐりする。わたしも参加している新耀展のオープニングもあって出かけたのだ。去年までは会社勤めとあってとても考えられない月曜の一日であった。
さて新耀展はいろいろな団体に属していたり個人作家だったり ビギナーだったり 大家だったりの寄せ集めのグループ展なのだがなぜか嬉しくて毎年出品している。去年長野の巡回展をしてメンバーとはだいぶ親しくなってきて今さら言うのも恥ずかしいが 顔と絵が一致するようになった。
この展覧会も若い人が居ない。どしてしまったんだろう。若者は?
画廊めぐりでは若い女性の個展を見た。表現的に素朴的に即興的に油絵の具で1メートルほどの大きさに裸婦 魚 ワニ などをラフに描き キャンバスをその形にそってきってそれを壁や床に止めてあった。言いたいことがあるようなないような緩めの感じで中途半端な気持ちにさせられた。・・・・無防備感?・・・
若い男はきっとこんな表現はやらないかなー・・ じゃーと身近で唯一知っている若者K君の作品を思い起こす。一般論として今の若者は結果を求められすぎていて表現の前に自分を定められた形にはめ込んでしまうんだろうか?
魚といえば 愛知の作家の個展を見た。大きな画面に(100~150号くらい)一匹の魚を描いていて色も形 大きさ(図案化されている)も嫌じゃなかった。・・唯なんで魚なの?という辺りがわたしには伝わらず思わず彼に声をかけてしまった。彼は愛知芸大出身の私とはほぼ同世代作家 しばらく絵描きとして空白期があった後の活動らしく ものすごいエネルギーを感じた。たぶんそれが作品の好感になっていたのだろう。と同時に次にどんな変化が現れるのか興味が沸いた。名刺を交換して帰ってきた。

2013年6月7日金曜日

ギャラリートーク後の考察

前回に引続きもう少しギャラリートークを考えて見たい。
『これは何!? どうしてこうなるの?』という驚きが作品になくては人は作者の声を聞きたいとは思わない。いったいどんな人がどんな考えを持って制作しているか知りたい。・・・これがギャリートークの意味だろう。
さて、なかなかこんな作品には出会えないが この展覧会(アートウエーブ50人展)にはあったと思う。
しかし応える側からすれば いざ自作について語ろうとしてもなかなか言葉にならないし 肝心なところは言葉にしたくない、とか理性的に解析したくないとか感じている作家がいるだろう。作品が不思議なほど作家は説明を拒む傾向がある。 かなりファジーなところでモノを作ろうとしているから無理からぬ。
私なども トーク中に自作の中にある麻布の形象について質問を受けて戸惑ってしまった。『自分の不確かな存在感』と応えたが ほんとにそうなのかも今もってわからない。昔どこかの本で見たコプト教の古文書のようなイメージで描き始めたけれど それがまさにコプトのパピルスとして伝わることなど私は望んでいるわけではない。もし望めば現代の技法は写真でもコピーでも使えばいいのだから。
未分化なボーっとした方向性にこそアートの本質的魅力があると思う。そこが解析できた時点でそのアートはアートの死かもしれない。だから作家たちは言葉嫌いなのか それとも意味不明の言葉を使いたがるのか・・・
ありふれた感傷や既存の思想はことばにはなじむがアートの興味ではない。
ギャラリートークの限界のようなものも感じつつ   次回へ。

2013年6月3日月曜日

ギャラリートーク どうかな

開催中のアートウエーブ飯伊50人展は何となくいい評判のようで とてもうれしい。個々の作品をリスペクトしながらも 全体としてさわやかな空気感があると言ってくれてるようだ。
さて、昨日の日曜午後は会場で有志によるギャラリートークが行われたが、私には個人ブログを読むようなつまらなさが気になった。私も参加者なので自戒を込めて書くが『こんな料理を食べておいしかった、とかどこどこでバラを嗅いだとか、そんなこと わざわざききたくないよ!』的な印象に終始した。
自分が大作家で 日常のちょっとしたことでもファンは聞きたがっているとでも錯覚したかのような軽いエッセイ風の話なんかしたって 聞きたい人は皆無だと思う。自意識過剰だっての!
じゃあ、何を話すべきなのか?何を話せるの?
たぶん上手い話なんかはできない。理性で絵を描いてるわけじゃあないからな。言葉にしたらつまんない事してんだ、きっとぼくらは。
そんな中 参加者の久保田氏の話は聞けてよかったと思った。彼は商品のパッケージデザインナーとして活躍している70歳(?)。小柄で若々しく朗らかな方だ。和菓子や料亭などの名前の文字デザインを展示していてその制作の裏側を語ってくれた。彼の作る字は商品であるため読めなくてはいけない、個性的でその品物(またはその示すもの)のイメージをより良くアピールしなくてはいけない、そのためその作品の裏には何百枚の試作があり葛藤があるという。そしていいものが出来ても、それが発注者によっていとも簡単に否定されることもあるという。コンペで書家と競ったこともあったそうだ。勝ったときは嬉しかったと語った。こんな苦しみを経てあの味のある字が出来ているのか!と軽いエッセイ風の話の後 複雑な思いに駆られた。パッケージデザインの字は洒落てて味があるが 部屋に飾って鑑賞はしない。一方鑑賞する絵のほうは軽いエッセイのような気持ちで描いていては とても見る人には伝わらないだろう。伝えるべきものにもっともっと向き合わなくてはならない。そしてそれを言葉にも出してみよう。

2013年6月1日土曜日

アートウエーブ飯伊50人展開催

昨年 立ち上げの時点で物議を醸した飯伊50人展が今年はこの時期に開催となった。飯田美術博物館で行われる現代の創造展のマンネリ性に一矢を酬いたいという思いが一部の人に毒となったようだが蓋を開けてみると一週間で2000人もの来客となった昨年の50人展であった。
今年は 時期をその展覧会にぶつけるという過激なことは避け少しマイルドに開催した。展示も昨年よりすっきりしたように思う。言いたいことも大してないのに大声で叫ぶような作品は少なくなって 自分の中を見つめようとしている気がする・・・そんな方向をすこし感じる。また若い人の作品も新鮮さがある。