2014年4月26日土曜日

ゴールデンウィークは南無で

日本画の大きな展覧会を上野で3月に見たが(院展100年とかいうタイトルだったか)違和感を感じないではいられなかった。明治の価値観から全然現代にだどりつけないでいる。そしてそれで良しとしている。それが残念ながら日本の美術の実態なのだ。
今朝の朝日新聞に野見山暁治氏の記事が載っていた。デパートで初めて展覧会を開くそうだ。画伯はもう90歳過ぎで人気のある有名画家であると思っていたが デパートでは売れないので展覧会はやらなかったそうだ。曰く『麻生三郎と俺の絵はいつも売れ残った』そうである。ヘエー。
確かに日動画廊あたりが昔売っていたのは藤島某画家のような風景画だから抽象画の市場などないに等しいのかもしれない。なぜ市場を開拓できなかったのか?深い溝が経済と文化の間にありそう、悲しすぎる現実。
私はそれでもギャラリー南無の展示をする。古典的な美術品(もっと言えば書画骨董の範疇)ではない、心のコミニュケーションとしての絵画(私はアートと呼ぶ)がお金を介してどなたかの手にわたることを実現するために。・・・kusso!
写真はギャラリー暁の出品作

2014年4月17日木曜日

20世紀的アートを考える

「個の屹立展」のオープニングに参加するため銀座に出かけたので午後の空いた時間に画廊巡りをすることにした。幸運にも赤津先生とご一緒することになり 京橋辺りまで足を延ばした。赤津氏が評論した作家の個展会場にいった。花見宴展というタイトルなのでとてもこの時期らしく華やかな展覧会と思っていたら とても静かな風景の絵たちであった。花見宴は本名ということで物静かで端正な文学者または詩人風の中年の方であった。絵はとても色が純化されていて形体も迷いのない段階まで自分のものにしているようにみえた。それは誠実な感じがして心が和んだ。ただ人生の孤独のような寂しさはしっかり感じた。
個展会場で初対面の作家とある程度深い話ができることはそうはないが赤津氏と一緒だったので作家の方もそう警戒せずに心を開いてくれた。このタイプの作家とは特に貴重な経験ができたと思った。
彼は暮らしの周辺の景色などを納得がいくまでデッサンし頭の中で消化できたあと何も見ないで絵を〈油絵)描くそうである。すべてに迷いがない感じはそこからきているのか。
寂寥感については彼の生き方、暮らしが反映されているのかもしれない。それは魅力のひとつで訪れる人々が皆感動していた。私はそれについてやや不安を感じる。社会と個人の関係はゴッホのように時に悲劇につながり 同時にアートに比類のない価値を与える。甘味なストーリーだが、袋小路・・・(太宰を読み続けてはいられないような。そんな感じ?)
私は20世紀的な価値観として それをひとまず横に置いて 異なったアートを見出したいと思ってしまう。

2014年4月9日水曜日

南無の「飯田を愛する作家展」

今年も 花が満開になって桜の名所は華やかになった。私も肩の力が少し抜けて楽になる。ほんとに不思議と楽になる。・・・
いつもながらこの一か月は気候の変動のせいか 焦る気持ちに陥り 精神的にヘビーなってしまっていた。
そして地元ギャラリーの南無の飯田作家展のお誘いを受ける。辛かったらお断りすればいいとは思うが 実はそれはいけないと決めている。
この画廊は≪ 売る≫というコンセプトを大事にしている。それは美術愛好家と作家を強く結ぼうという心意気から出ているのだ。とかく頭でっかちな絵はなかなか売れない。独りよがりで尻つぼみになるアーチストを救おうと高邁な心が 私にはありがたい。尻尾を丸めてアトリエに逃げ帰るのはみじめすぎるではないか。画廊関係者に感謝しつつ、気持ちを上げていくこの頃である。
日程:5月3日〈土 祝〉~6日〈火 祝〉
参加作家:今村由男 甕恵美 林正彦
ギャラリー南無は たどり着くのがとても難しい、困ったものだ。http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.43217832&lon=137.78719875&ac=20205&az=40.42&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%B8%82%E7%AB%8B%E7%9F%B342 このアドレスはギャラリー南無のマップです。