2014年11月29日土曜日

50人展第2ステージ始まる

私てきにはなんとも、あわただしく次のステージが開催となった。従来の形式での展示となったが50人を超える作家の総花的展示はどうしても息苦しく思える。
さて内容については 所謂社会的に評価されている作家たちは十分みごたえのある作品を出してきている。さすがというべきか。
抽象系の作家たちは自らの方向に磨きをかけている感じだ。
伝統工芸作家の作風も堅実な姿勢を感じる。
今回私は2つの問題を考えている。1つは40代以降の若い作家のマンガ的に画面構成された絵をどう展示したらいいのか?従来のデッサンによる空間とは異なるので一緒にはできないのではないか。
第2に表現の習作的作品群について?を感じる。 どうしても重苦しい。なにを言いたいのかを見る側に問いかけているようで、少し古い感じである。

ワークショップを開催

キング堂の個展会場でワークショップを開催しました。中村ブラウン(赤土)をこねて自分のタブローを作ろうというもので 集まってくれた人々は期待に反しておじさん達が圧倒的に多かったですね。短時間に捏ねた赤土を絵にしていく感覚はさすがにみなさん慣れたもので(参加者のほとんどが絵のフィールドのかたでした。)1時間程度で終わり際を見極めてしまいました。
慣れない方は方向性が定まらないのでいろいろチャレンジしている間に時間がたってしまいますが・・でもそうやって悩んでトライしていくのがこのワークショップの大事にしたいところです。
次はもう少し時間をとってそれぞれの作品を鑑賞しあいたいなとも思いました。
余談ですが 私は参加者のために100円ショップでエプロンを揃えたのですが 見事にみなさんにマッチしていました。なんか嬉しかったな。

2014年11月22日土曜日

飯伊50人展第1ステージ始まる

第3回目を迎える飯伊50人展が昨日から長野県飯田創造館にて開催となった。今回は以前までの総花的展示にこだわらず新い展示をこころみた。まず会期を1週間づつ2つに分け、前半は若い作家たちが中心になった企画展で名付けて「Reflection新旧の対峙」というステージです。出品者は60代1人、50代1人、40代2人、20~30代が5人という構成です。(因みに60代の一人は私・・。)また、ブルガリアの若手作家の小品も若者つながりで参考展示を試みました。
後半は27日からの第2ステージで以前の形を継承した飯伊で活躍している作家たち50人の展示です。
今の日本はいろいろな分野で転換期が起ころうとしています。美術の分野でも既存の美術団体が若い世代に受け継ぐことができなくなって立ち往生の観がうかがえます。わが飯伊地区でも閉塞感がいろいろな美術展に感じられてなりません。そんな状況に一つの提案になればいいと企画したわけですが多くの人に来てもらい語らってもらいたいな。と思ってます。開催中の前半ははたして世代間ギャップはどうなんでしょうか?

2014年11月20日木曜日

キング堂個展その2

南信州新聞と中日新聞に記事を載せていただいた。新聞の力には常々感謝している。来訪者がグーンと増すからだ。いい出会いがまたあるといいなー。

2014年11月16日日曜日

キング堂個展

キング堂ギャラリーにて個展開催となりました。
今回はことし制作した16点を展示しました。大きく2系列の内容となります。一つ目は小品たちで「室内に飾る」をテーマにしています。なるべく重くならないように制作したものです。そのため深みとかに不満があり、秋以降は大作に挑みました。それが今回の第二群です。「金属と土」をテーマに5点展示しました。11月24日月曜祝日までの10日間です。多くの皆様ご来場をおまちしております。

2014年11月3日月曜日

素材としての土の色

飯田市の創造館で今展示されているオブジェは先日友人の手塚氏が指導した赤土を使って描くワークショップの作品群だ。なかなかの存在感を放っていて、嬉しくなってしまう。
失礼だが隣のブロックに展示されているアカデミックな絵たちに比べとても魅力的である。たぶん素材の土の力が大きいと私は考えている。
(絵の具と土について考えたとき、)所謂絵の具というものは色をだすために極限まで抽象化されている。だから当然平板に使ったその色には何も性格は生まれない。描こうとする作者の意思に従い画面にその役割を忠実に与えられていく。ある時は澄んだ秋空として、またある時は燃える炎の赤として。たとえて言うなら舞台の名優だ。
しかしここで登場している素材としての土は全く絵の具とは正反対の代物で、土でしかない。秋空も表現できなければ、火の激しさも表現できない。表現とはほど遠い舞台でいえば大根役者だ。
しかし今という時代は表現物で溢れている時代だ。テレビをみればコンピューターグラフィックスのコマーシャルで本当の出来事なのか偽なのか区別がつかない。・・・もう名優だらけなのだ。そうなると私たちは、どう思うんだろうか。・・・気持ちよく騙されているうちはいいが、悪意のある嘘に騙されるようになるともう魅力も何もない。演技力はもういいよ!。本当のとこ どうなの?となる。
土には演技力はない 大根役者だ。でも存在そのものが土としての真実なのだ。私は 素材としての土を使うとき こんなことを考えてしまう。”存在そのものが真実。私たちそのものの存在感が今、能力とかいう概念(20世紀的)で脅かされている。しかし希薄なんかでは全くなくて存在している事そのものが偉大な真実なんだと。”
そんな安心感のなかで自分の手の素朴な動き、とか 画面の出来事から感じ取る素朴な ナントカ見たい!と言った感覚を発展させたりして喜ぶのが、表現というものの原点と私は考えるのです。
そんなシンプルな構造がその作品たちの魅力なのだ。