2015年2月8日日曜日

現代の創造展、ギャラリートーク


ギャラリートークを昨日今日の2日間現代の創造展会場のコンテンポラリー部門で行っている。
なぜか多くの出品者は作品を展示するとあとは作品が語ってくれるからと、自作の前で語ることをしない。私はこの頃そうは考えていない。というのも自分の作品は 美術史上の名作のような圧倒的説得力はとても持たないだろうし、その名作だって、多くの才ある評論家が言葉を尽くして意味を定着させてきたのだから、・・自分はその意味するところをせめて自分の言葉で置き換えてみる努力はすべきではないだろうか、と考えるのです。
そうして参加者を募ってやってみたら、若手作家が(写真の中の葉脈=Vineという作品、松井のの子さん)が堂々と自分の中から作品が生まれる動機を語ってくれた。 とてもみずみずしく、感動を呼んでいた。多分この話を聞いた人はこれから先のの子さんの作品に触れたら必ず彼女の世界に入っていってくれるだろう。

 より多くの皆さんにギャラリートークを聴きに来ていただきたい。美術の形も変化してきているのだ。

2015年2月5日木曜日

音痴はない

音痴はないというタイトルに惹かれて先日図書館で本を借りてきたが思いの外いい本でだった。僕は著者のように中学時代音楽の授業が地獄であった。一人で歌うと音程が取れないのだ。そのくせ合奏とかみんなと一緒に騒ぐのは嫌いじゃなかったので、ブラスバンドに入ってしまっていた。
若気の至りで今思い出しても冷や汗ものだが、そのブラスバンド員が音楽の時一人で歌うと  それはそれは何とも情けない歌であった。だから今でもカラオケは行かない。トラウマだ。
さて、この本が掘り下げている一つは、音程(西洋音楽の)の概念をまず外して 単純に“音”だけをみんなで鳴らしてみる。それを大勢で、交互に鳴らしてみる。すると リズムのようなものが出てきてだんだん楽しくなり 高揚してくる。・・・それって、音楽の楽しみなんじゃないの?!
私もそれはよく知っている。だって、ブラパンにいたんだから。
ここで、大事なのは音楽は楽しむもので、音楽は勉強するものではないところだ。ところが一昔前の学校は西洋式の音楽が真の音楽であって、身につけるべきもの、習うもので、なんとなく歌えてしまう炭坑節は音楽の範疇ではなかったのだ。
この考えはいま、徐々に改まりつつあるが、ひとびとの底辺では割と執拗に生きているように思われる。例えを美術に変えてみよう。上手く描くことが絵の最大の価値であると多くの人が考えていて 展覧会で私が描くような絵は「わからん!」とことも無く言い 見ようともしていただけない。
音程を上手く操って歌う歌が音楽のすべてだ、と言っているのと同じだ。ジャズやパンクは認めない。 絵も音楽も勉強して、修行して行くもんだよ。と考えている。先生とよき生徒のみが美術や音楽の世界に居ることができると・・。
でも、基本はすべての人が心を喜ばせるもの、心を遊ばせるもの。その点が重要なことなのにそこへの着目がない。考えようとはしない。
一部のエリートだけが、音楽や美術を楽しむものではない。心の中に自由を羽ばたかすのはすべての人ができることなのだ。音痴といって音楽の外にいる必要はないのだ。
私は現代の創造展でもそこを感じて貰いたいと思っている。

2015年2月2日月曜日

15回現代の創造展

 
昨日 標記展覧会が飯田美術博物館にて始まり、私も関係者として初日を会場で過ごしました。コンテンポラリー部門も今回で3回目、「だんだん充実してきた」とご意見を少なからず頂戴しかなり満悦の一日でした。さてさて都の塵も通い来ぬこの飯田の地で 十数年続いた半官制展覧会が閉塞感を脱皮して改革に向かうことは甚だ茨の道でした。〝見えるように上手に描くこと″とは関係ない次元で作品が出現して この展覧会に出品する。ということを当初ローカルマスターたちは認めませんでした。しかし、来館者たちの「なんかおもしろい!新鮮だ。」のことばが私たちを後押ししてくれました。もちろん参加してくれた若い作家たちの努力も説得力を持ったと思います。たとえば書の分野でずーっと主体となってくれている石原獨往さんは昨年評論で賞を獲得していて私たちの考え方を底辺から支えてくれています。一人一人が手を動かしそこからうまれる些細な変化に感動して次に進む。そのこころ(喜び)がアートなので そこには上手になるルールなんて存在しないのです。そこのところを若い人たちは気が付き始めて、ローカルマスターたちの主催するお教室には通わないのです。その受け皿的な展示の場が少しでもこの現代の創造展で担えるならと思い彫刻家の山内氏たちと頑張ってきました。それが3年前 コンテンポラリー部門設置の意味だったのです。
ぜひ、美博のホールをかくれんぼ感覚で歩いてみてください。そして作品たちに出会ってみてください。