2016年3月26日土曜日

木下以知夫を悼む

去る22日朝 カテゴライズしてはいけないだろうが〈彫刻家〉木下以知夫さんが66歳で逝った。私にはとてもインパクトのある人物であったので何か語ってみたいと思った・・・。
が、実はとても謎の人物で知らないことばかりであった。
ここ数年は 彼が参加したいくつかの展覧会が会える機会であった。【物】(素材とも作品とも言い換えることは彼は望まなかった。)はボンベなどの廃物鉄で会場での配置のため(配置という言い方も間違っているが。)のインスタレーションはその【物】と彼という肉体(脳もその内)との出会い場であり重要なポイントであった。その素の関係が現れることがアートであったのか。・・・
わかった風の語り口をしても決して理解できるわけもないが、魅力が私にはあった。どこか甘味さと言っていいのかわからないが好きであった。
東日本大震災の年に一緒だった展覧会では鉄片か木片が床にいっぱい散りばめてあり そしてその裏には すべて南無阿弥陀仏と書いてあった。ーーー
ただ話をし始めると難しくなり 私はいつもめんどくささに退散してしまった。今となっては失礼と無理解を詫びたい気持ちでいっぱいだ。・・・仕方がない。
この閉ざされた地方都市で、伝統や常識の柵と戦い 4人の立派な子供を育て、そしてやりたいことを貫いた生き方に本当に敬意を表します。 若すぎだよ、逝くには!   安らかにお休みください。 合掌

2016年3月22日火曜日

ギャラリー暁 絵を楽しく

この時期の銀座かいわいは知り合いの方々がグループ展を開かれていて毎週出かけないと義理を欠いてしまう思いがする。そうは言ってもカネもないし 社交性もそこそこなので不義理を決め込むしかない。
ということは当然自分の参加するグループ展の案内状もあまり出さなくなって ちと寂しい・・・
さて、暁展が今週は始まりオープニングに参加した。

参加者達が話すことで気になったことがあるので記してみたい。
それは公募展のことだ。「大きな絵を費用をかけて描いて運んで展示にたどり着いても そこでの成果があまり感じられない。それに大きな絵は どこにも飾れない」というのだ。それに対し暁展のような規模のグループ展なら少ない費用で展示ができ 雑用も少ない。公募展のような固定的な人間関係はなく友達もできて 銀座で楽しい時を過ごせる。・・・
どうも、ここ飯田だけでなくほぼ全国的に美術的老害現象注意報が発令されているんだな・・・。
入選制度と賞味期限の切れた権威に 早く多くの人が見切りをつけて 自分の価値観に自信を持ってもらいたい。そこなんだけど。

2016年3月15日火曜日

ピカソ展 あゝ若き頃

名古屋にてピカソ青・桃の時代展が開かれていて 久々に見に行ってきた。月並みだけどやはりピカソはすごい、ため息だ。
よく、半可通の人が 『何事にも基本が大事だ。あのピカソだってデッサンがあるからこそあのような絵が描けるんだ。』というのを聞くが私はそのたびに腹が立つ。確かに彼は幼いころから並外れたデッサン力が身についていた。14歳のデッサンがその早熟ぶりを語っていた。
17~8歳でアカデミアに入学するが そこではもうアカデミックな美術教育に飽き飽きとして 街の中の何かに魅かれ始める。
私はこの辺りの感じが若いころ(美大浪人の時代)やたら共感していた。一所懸命デッサンしてそして何がその先にあるんだろうか?という問いだ。黒田清輝から100年つづく日本の美術教育の末 果たしてどんな美術ヒーローが出たというのだ・・・
私は、若い頃こそ社会に目を向け 自分はどう生きるのかと試行錯誤していくことが大事でそれがアートだと感じていた。だからピカソの18のころの街を放浪する気持ちが解ったし羨ましかった。
私の時代は今よりはまだ社会が隙間だらけだったから ふわーっとしたいい加減な時を過ごすことができたが それでもまともな職に就かないと生きていけないという強迫観念に押しつぶされ ピカソのように(またはその時代のように)奔放には生きられなかった。デカタンの妄想だけだった。
ピカソはその時代の社会の矛盾のようなものを感じ貧しく放浪する人々を描いた。「貧しくても何か光る真実を私は感じることができる」と言っているようだ。まさに恍惚と不安我にありである。ピカソは後にこの青の時代は感傷だけだったと語っているが、しかしアカデミックな技術論の美術ではアートではないと感じて一歩踏み出した若きピカソはすばらしい。その一歩の深い意味を前述の半可通者は解っていないのだ。
そしてピカソはそこから落ちていかず、美術的興味で自身を高みに持っていった。