2017年12月4日月曜日

直島銭湯

現代美術の初歩の鑑賞というテーマの街ゼミに関わって以来 「あの気持ちよさ」って何だろうと改めて考えている。
そんな折、瀬戸内の直島を訪れるチャンスがあった。ここには李禹煥美術館や大竹伸朗の作品がある。写真は大竹が飾った銭湯前の1ショット、入浴まではしなかったが 妙にうれしかった。はしゃいで彼の作品模型の入っているガチャをやってきた。戻ってホテルで見ると銭湯の中にあるという巨ゾウのフィギアとミニ風呂桶が入っていた。風呂入ればよかった。
彼の作品はそれ前の世代のアート(例えば、李禹煥)と違って、もっとポップでキッチュというのか俗で日常的なものの寄せ集めのごちゃごちゃ感!。楽しいアートだ。ハイレベルなところから急降下したみたいで、皮肉感もあるかな。そこがはしゃいでしまうところ。
さて、ここで出会えた一番はヤヌス・クネーリスだった。この地で滞在しながら制作(1996)したという作品は木や布、陶器などを鉛版?で巻いて、それを積み上げた作品であった。圧倒的なものの存在感が迫ってきて 思わず「おー!」と唸ってしまった。
やはり現代美術は自分の狭さからの解放感と自由のよろこびだろう。
振り返って 私といえば大竹のような遊び感覚は どうも持ち合わせていないようだし あそこまで自分を解き放せそうもない。もうちょっと古い世代の李やクネーリスの方向なんだろうが、あそこまで自分を徹底できない。・・・中途半端と言わざるを得ない、また描きながら考えていこう・・・

2017年11月29日水曜日

現代美術といわゆる“左翼“

先週 静かに開催していた平面領域展が閉幕した。原さん、桐生さんら中心に4~5人で2年おきに開催して 今回7回目であった。だからもう14年になる。初めの頃は若かったこともあって妙に反骨の思いで開催していたが この頃はそれこそ静かなものでフェードアウトが心配である。
「街ゼミ」参加の企画がこの展覧会中にあり 私は会場の一つ”犬塚画廊”で 初歩の現代美術鑑賞というミニゼミらしきものを仰せつかり、開催した。とかく現代美術は難解で敬遠されがちということで 少しでも一般の方とその距離を縮めようというものだ。
しかし 状況は複雑に屈折しているようだ。
「アバンギャルド(=前衛)」といえば現代美術の刺激的でちょっと懐かしい言葉だが、私の若い頃 左翼全盛で ≪日常の常識を無自覚に受け入れてはいけない!高い意識で生きろ!さもないと古い権威主義に陥るぞ≫と言われていたような気がする。誰に?・・よくわからないが社会に言われていた。
確かに 小難しい理屈を振りかざすゲイジュツがこの頃多かったし 我々も困ってた・・・
それがバブルの頃からか 急に何かが変わって 「何をそんな難しいこと言ってんの?」「まったく意味ない!」となってしまった。
日曜日の朝、結構見ていたTV番組で『関口宏のサンデーモーニング』があるが この間ネットでこの番組を 団塊世代の 左翼生き残りのための番組と言っていた。どうもバブル期ころから 「現実をどうやって生きるか」というテーマに社会が変わってしまって 「現実をどうすべきか」は全くの抽象論 どうでもいいことなのかもしれない。
だから抽象的な 議論は嫌われてしまうし、私もなんだかだんだん面倒くさくなってきた気もしてしまう。
事実 現代美術も 観念的なアートは少なくなり、気分発散系や視覚的においしい系やマンガ系が人気だ。ホワホワして幼稚ともいえる。・・・
結局 そのゼミは、5~6人中2人くらいの方が 抽象絵画のほうが好きですと言ってくれて 私は晴れて終了に至った。硬い左翼思想を担ぎ続ける気迫もないが アートの根本はやっぱり真摯な生きる姿勢だと思うしかない。

2017年11月7日火曜日

CAF.N展(埼玉近代美術館)明日から

トランプ米大統領の来日のため新宿4号線は全く動かなかった。首記展覧会に搬入するため毎年11月の第1月曜日は埼玉近代美術館に行くのだが、今年はちょっと違う出だしのようだ。まあ その後一時間弱で何事もなかったように高速は流れだして 無事展示を終えたのですが。

写真は今年の出品作。
タイトルは「時と格子」
人の運命のようなものについて考えながら 作りました。
さて皆様に何を感じていただけるか…

追記;実はこの夏 テレビで東京大空襲の番組を見て、感じることがあった。それがこの絵の動機なのだが。
ーーーピカソが世界に問うた無差別爆撃の「ゲルニカ」、それと同じような 否もっと酷い爆撃がその数年後に東京にあり またすぐ後には原爆の投下があった。その悲劇が ありつつも 今 私たちは生きている。忘れつつ、また乗り越えつつ・・・時が沈静化していく。
トランプ氏が日本を訪れ日米が親密になっていくのもいいが  何か忘れていけないものもあるように思う。

2017年10月20日金曜日

米作り

私は 長野県南部の山間地で零細な米つくりをしている。と 言えるほどの専門家でないのは前にも何度も言い訳している・・。
このところの気象変化には大いに苦労している。秋に雨が多く、比較的暖かい。この頃は稲刈り、脱穀、田おこしなど 田での仕事が多いのだが ぬかるんでしまい思うように仕事ができないのだ。とうとう田の半分はJA(農協)のコンバインに片付けていただいた。
米の出来も思うほどよろしくなく カメムシ被害(米に小さな斑点ができてしまいました。)を去年から受けている。また収穫後の米の保管もなにやらツナギ虫とやらが発生するらしく気を配らなければならない。ああ。
元々の農業者でないから 上辺の米つくりしか知らない、・・・すべてが後手後手でストレスがたまってしまう。
隣人のベテラン(と言っても3つほど年上なだけだが)に聞くと「毎年条件が変わるから なかなかうまく作れる年ばかりではないよ」と慰めてくれた。
知り合いには『絵を描きながら 米作り!』いいですね。と言っていただけるが、これでも苦労がたえないのですよ。

2017年10月12日木曜日

絵と言葉

ほんとに久しぶりに このページだ。
もしかして もうブログをやめようかとも思っていた。(かすかに)
過日 懐かしい友からブログ見てるよとメールをいただき なんだかとても不義理をしていたような不安を覚えてこのページを開いた。
フェイスブックなるものをやっては見たのだが、全く自分のペースを保てないので そちらは無精者で通すことにした。もしかするとブログのほうが僕には合っているのかもしれない。落ち着いて考えたり思ったことを書いたりできる。浮気もここまでか。
それからもう一つ ブログお休みの理由らしきものがあった。
絵の表現の出どころと言葉を扱う表現の出どころとが違うということがある。言葉の世界はかなり知の世界が(または概念)占めている。だから解析とか理解とか知識がいる。かなり疲れる・・そのわりに行きたい世界にたどり着けずどうどう巡り感がある。カッコつけてる割に底が浅いとわれながら思ってしまうんだ。
一方、絵は自分の中で知の世界を通り抜けないので直接的に何かが出てきそうに思うのだ。全く幼稚だったりするが理屈なしの快感がある。
感性頼りのところがあるので一本調子のところがあり、迷いに入るとなかなかスランプから抜けられないのだが。
今年の夏の初めころ 自分の世界が妙に観念的になった気がして 知を経由しない絵を描いてみたかったのだ。
今年のCAF.N展が近づいた。8月以降に描いた絵を出品するつもりであるが 果たして皆様はどう見ていただけるか・・・
図録に乗せた自分の絵の解説文はちょっと観念的でまずかったかな、とも思ったが 見る方の中には知の世界から絵に入る方もいると思うから、あえて書きました。



2017年7月19日水曜日

ドロ―イングと奈良美智

ポストモダンの概念を考えていた矢先に、いいタイミングでいい展覧会を見ることができた。僕は名古屋で個展開催中だったので合間に行ってみることができたのだ。
正直言って 子供の不機嫌な顔ばかりのイラストのような作品にはいまいち理解できなかったところだが 名古屋ではかなりの人気でびっくりしてしまった。「かわいい!」とよく聞く。
さてさて、オープン2日目の朝一で豊田美術館の駐車場に入ってみると 地元はもちろん仙台、石川、多摩、山口・・と様々のナンバーの車がもう七割がたいっぱいになっていた。そして美術館の入り口に向かえば まだ10時前なのにもうかなりの行列だった。
中に入ると 展示は自ら手掛けたようでゆったりとしていてユニークだった。
1988年から1991年ころの彼の初期作品を私は初めてみた。それはとても新鮮な驚きだった。ドローイングにそのよさがひと際出ているように感じた。バスキアのような落書き的な表現で、でも日本人的な繊細さと柔らかさ、そして日記のような(もっと言えば下着のような)感覚を出している。一緒に行った友人は『女々しさ』の公的化といった言い方をしていた。僕もあの頃(浪人の頃)絵に日ごろのちょっとした感情の表現を入れられないかなーと思ったことがあった。ごちゃごちゃスケッチブックに文やら線を書き連ねた記憶がある。でもそこの次元と絵の次元を同化することはできなかったし 思いもよらなかった。丸めて捨てる落書きでしかなかった。
その次元をアートまで引き上げた奈良美智はやはりすばらしい、と深く感じた。
ただ、この個人的な感傷の詩情は青春の1ページとして理解できるが、その次は?と問いは投げかけられたままと言っていい。・・のではないだろうか。
いや、あのドローイングをもっともっと展開してほしい、子供の顔ではなくて。 

2017年7月10日月曜日

ポストモダンって?

ポストモダンという言葉がある。正確には理解してないが、封建社会から民主主義の近代化を成し遂げた社会の文化の底流にある、その理性中心主義、機能主義、理想優先に対し、そうではない人間の矛盾や 人間的な感情、ユーモアを優位に扱おうとしている文化的動き、と考える。たぶん具体的には建築やファッションなんかで主に使われている言葉のようだ。この概念は僕の言うコンテンポラリーの考え方の中に入ってくると思う。
一方で トランスアバンギャルドという言葉もあった。ちょうど僕がアカデミアを出るころ盛んに使われていた言葉で アバンギャルドの表現者たちのあまりに難しい概念や観念主義に陥らずもっと生の人間の感情を表現に入れていこうとするものだったかなと思う。この流れも反モダンの第一波ミニマリズムなんかの反動で 大きくコンテンポラリー内と言えると思う。僕が80年代感じていた禁欲主義に疲れた感じを癒してくれたのは ちょっとした豊かさと ゆるい前向きさだった。田中康夫のクリスタルは嫌味であったが 後に長野県の知事になる頃に言っていた民主主義は考え方のちょっとした柔軟さで とても身近に実践できるものと思えた。

いま名古屋のギャラリー芽楽で開催中の個展に若い陶芸家が訪れ話す機会を持った。「林さんは高校の頃から絵描き志望だったのですか?」と。
確かにそうだ。僕はあのころからずっとそう思っていたのだ。そしてその数年後から そのコンテンポラリーの雲のような思想に引きずられて絵を描いているのだ。
ぼくは解らないなりにコンテンポラリーが進むべき道を言葉にもしていきたいと思う。

2017年7月6日木曜日

ニューヨークのコンテンポラリー文化について

ニューヨークのコンテンポラリー文化にあこがれを持ち、その残り香のようなものをかすかに追い求めてきたように 自分を思う。前のブログで一柳彗や草間彌生について考えているうちにちょっと自分の立ち位置を考えてみたく思った。
田舎育ちの若者であった当時の私には サイケデリックな文化も少し年上の人たちのものだったし、エキセントリックな演劇やらハプニングもやたら怪しくて 遠巻きに眺めているに過ぎなかった。観念アートも何やら暗く難しくて中には入っていっけなかった。ただ、ジャスパージョーンズやラウシェンバーグの絵にはなぜかとても惹かれていた。また、ジャズは好きで72~3年ころはよく渋谷のジニアスというジャズ喫茶には通っていた。
芸大浪人が重くのしかかる頃になると 友人と「軽みの会」とか言いながら やたらと社会権威に反抗して粋がってもいた。ささやかなカウンターカルチャーの体現だったかもしれない。精神的には 私も一端のアンダーグラウンダーになっていたのかも。赤瀬川氏が活躍していたころか。
70年代後半はやたらと街がきれいになっていった。横浜駅の地下街ができていって 私自身はとても場違いな気分にさせられた。広場にはファッショナブルな女性の彫刻が飾られた。このころ一柳氏の言うコンテンポラリー文化のパトロンが登場していったのだろう。
このアートの商業化の流れは コンテンポラリーのポップな面が大きくクローズアップされた。ポスターがアートとなり グラフィティアートが偉大になっていった。ファッションもアートとなった。
私がイタリアから帰ったころ 日本のテレビでは アンディーウォーホルが「おいしい生活」を高らかに宣言していた。
たぶん、80年半ばころが日本でコンテンポラリー文化の花が咲いていたころだっただろう。バブルの頃とも重なっていた。
ここで 私の疑問は その文化がポップなところだけ調子に乗っていて、もう一方の反権威で 自由で 知的なアートが奇形していったことだ。
ポップな表面的な綺麗さ カッコよさ 可愛さ 軽さがエネルギーを持って行ったけど 取り残されたもうちょっと本質的な自由な生き方を志向するアートはどうなってしまったのだろう。私には無視されたか 存在さえ気づかれなかったように思う。
コンテンポラリーの手法は様々な展覧会や個展などでも見るが 単なる個人の感性の表現に留まってしまって かつての大いなる野望すなわち自由な生き方を貫くのだという主張は薄められ ないに等しい。
私が 赤土を使って描く絵は 単なる変種の洋画では 決してないのだが、そこの主張はまだまだ届かないのだろうか。
なぜだろう。



2017年7月4日火曜日

アートは 自由な挑戦という

コンテンポラリーというジャンルは社会的に定着しているのか?
なかなか影が薄い言葉のようですが 文化面ではある程度の世界は出来上がっているかもしれない。
極々一般社会では もっともっとアピールしていかなくてはいけない状況かなと感じ始めてます。
朝日新聞に現代音楽では有名な一柳慧(84歳)さんの「語り」がこのところ出ていて楽しみに読んでいる。----------
若い世代にとって、自由な挑戦がやりにくい時代のなったなと感じているんです。私たちの時代は戦争の影が濃くて 未来が見えず、これからの社会の形もはっきりしなかったので、逆に束縛なく社会に突き進むことができました。
1970年代後半あたりから社会に形が整えられていき、芸術の社会も商業主義という社会の枠組みから逃れられなくなってきた。でも、そうした時代には、よきパトロンの矜持が私たちの実験を名実ともに支えてくれました。≪いけばな草月流の創始者勅使河原蒼風は現代芸術への支援を惜しまなかった。――中略――セゾングループの代表堤清二氏がセゾン美術館を率いた≫―――中略―――
堤さんも世を去り、アートと社会を結んでくれる人も少なくなりました。それでも自分なりに道を見つけ歩き始める若者がいる。ならば、やっぱり光を当ててあげたいと思うんです。--------
一昨年から自腹で、コンテンポラリー賞を作曲家、演奏家、評論家ら、孤立しがちな現代音楽の現場を横断的に結ぶ人たちに光を当てるため創設したそうである。
私は一柳さんより20歳若いので、彼の20代30代の華々しい活躍の時を知らない。ただその文化の残り香だけを吸ってきた。そしていまなんとも言えぬ閉塞感を感じている。
また私達より20歳以上若い人たちは自由な挑戦さえ知らないかもしれない。・・・
いや、もしかしてコンピューターのなかの世界が自由な空間なのだろうか??



2017年6月16日金曜日

ギャラリー芽楽の個展は来月!

6月にこう雨が降らないのは うれしい。とてもヨーロッパの気候に似ている感じで爽やかなんだ。北の高気圧が梅雨前線を抑えているので、乾いた空気が押し寄せてきて とても頭にいいような気がする?。ところがなぜか何もやり出せずにグダグダしている、のだが・・。
現実的には 稲の水不足が心配でもある。

それにきっと今月末から7月は雨が襲ってくるだろう。
--私は7月1日から16日まで 名古屋のギャラリー芽楽で個展なのである。きっと入場者が減るだろうーー。
頭は冴えても 心配事が尽きないし 体はよく動かないし。

まあ、これから気を入れ替え、すばらしい夏に向かって まずは部屋を掃除いたしましょうーー

そして皆さまいい展覧会にいたしますのでぜひ雨にも負けずご来場お願いいたします。
7月15日には 友人のチェリスト生田創が 会場で演奏もしてくれるんです。土の色とチェロの音色 実によく合うのです。
 

2017年6月3日土曜日

草間彌生について

草間彌生について知っているようで 知らないことばかりと、前回の投稿時に気づき 少し勉強しようと思った。まず彼女の幻聴や幻視の方向に注意が行き過ぎていて 大事な彼女のアートについてもっと学ぶべきであったかなと思い始めた。
もちろん 病の苦しみから逃げるごとく色鉛筆を走らせ続けたのは 彼女の独特の画面力ではあるのだが。
ニューヨーク時代について彼女の小説「ニューヨーク’69」を読んでみた。
あの頃のかの地は ポップカルチャー、ジャズ、ブラックパワー、サブカルチャー、ハプニングなどなど まさに現代の文化が咲き乱れたところだ。今の美術は殆どそこが発信源と言っていい。
読み始めてすぐ気が付いた。そう、ベトナム戦争が終焉に向かう時期だ。アメリカの若者は戦争に苦しんでいた時代で、ヘロインとかに救いを求めた。 やがて死がすぐそこにあった時代だったかもしれない。
草間も“心の平安”について宇宙的な広がりの中で自我を調和させ平安を得ようというスタンスで作品をつくっていたが、沸騰した鍋の中のように すべてがカッカ、カッカと進み渦の中であったと思う。
死によってのみ癒されるといった友人の死をテーマした話であった。恥ずかしながら、とつとつとしたインタヴューなどを聞いていた私は 草間がこんなに日本語を操れる人とは思わなかった。恥じ入った次第だ。
どうも、奇抜なちょっといかれたオバサンの発想は どこかの美術メディアにやっかみ半分でつけられた悪いイメージだな。知らないうちにハマっていたようで 改めよう。
私は ジョセフ コーネルというオブジェ作家が好きであったが、草間とそのころ公私ともにパートナーであることを調べているうちに知った。これも草間に対する考え方を変えたひとつかもしれない。繊細な彼とは きっと優しい関係だったのな・・・

ーーー時は流れ いままたアメリカはイスラムとの関係をこじらせている。ロボット兵器が戦争をしているからか 若者の感受性はあの時とは違っていて 出口を捜しているようにも見えない。・・・

2017年5月26日金曜日

草間彌生展

あわただしく過ごすうちに とうとう見逃してしまった。どうも生来のつむじ曲がりが評判になりすぎた展覧会を斜に捉えすぎていたようで反省している。実は草間ファンなのである。
ニューヨーク時代のソフトスカルプチャーやドットの作品は若い頃から「いいな」と思っていた。浪人時代 鎌倉の古本屋で60年代の美術手帳をいっぱい買ってそこで彼女に出合った。その頃の作品はまだ、今頃の作品で鑑賞できる楽しさのようなものは感じなかったけど 心にぐっと来た。ミシンで夜中 例の突起物を縫っていたという記事だったかなー。(白黒の小さな写真だったから余計にドキュメンタリックで辛口な印象であった。)
インタビューなどで堂々と自分を「前衛芸術家」と呼んでいて なんか気持ちいいな。
彼女の手記のようなものが朝日新聞に十回ほど掲載されていて、興味深く読ませてもらった。彼女はご存知のように若くから統合失調症のような病に悩まされていた。それに立ち向かうことと、”社会性”=日本的には普通であること への無限のプレッシャーと戦い続けていたと思う。
ニューヨークに行くことで少なくとも日本的な社会性からの解放はあっただろうな。それから 実に素直な人だから 周りのすばらしい人たちから「前衛芸術家」なんだから社会性なんかいらないよ、と言ってもらえたのじゃないかな。
でもでも、疲れて果てて73年には日本に戻ってきているようです。(このころどんな活動していたのか興味がある・・・)
80年代のバブルの頃は 長野県駒ケ根の美術館で作品をたくさん集めていたので、私は後によく見に行きました。「社会のことなんか関係ないよ!」といった印象がなんとも小気味よかったな。*芸術は自分を守るもの。*やっぱり一生かけて戦っていたテーマは 「前衛芸術家」にふさわしく説得力がある。この頃の作品の楽しさは 若い頃の魂の叫びが根底にあるから フワフワしてないんだろうな。しっかりと私たち伝わる。
ああ、展覧会行きたかった。



2017年5月12日金曜日

メキシコチアパスの画家たち展 in Yokohama

横浜の神奈川県民ホールで開催されていたチアパスの画家たち展は昨日で終了しました。多くの方にご来場いただいた模様で大変うれしく思いました。(但し提携展として横浜石川町の岩崎ミュージアムでの同名展覧会は21日まで開かれています。)私たちのグループは一昨年メキシコのチアパスに住む日本人画家花藤章氏とそのメキシコ人画家仲間との交流をつづけ、今回日本にお招きすることになり この展覧会が実現したわけです。
私はメキシコに行けなかったので、メキシコの方々とは初めての対面になりました。花藤氏は42年前にメキシコに渡り画家としてやって来られた方なので見た目以上に日本語が通じました。そのことを言うと「日本人ですよ・・」と照れていました。素朴で純真な人柄に触れた気がして、ぜひ機会があれば私も当地を訪れたい気になりました。
また、一緒に来日した作家の一人はマヤの部族の血を継ぐ人がいてなんとも魅力的な絵を展示してくれました。部分の写真をアップしておきます。美術の技術には興味がなく伝えたいことを素直に描いていていいなと思わず言ってしまいました。

2017年4月21日金曜日

ゴールデンウィークは地元南無展へ

ちょっとばかり寒い日が続く今年の春 でも花は咲きだし小川の水音や鶯の声は「元気出して動き出せ」と言ってるようだ。そうこの季節が迫っている、南無展だ。コメ作りの田んぼと同時期でなにかと難しい時期だが 望んでやっているので黙るしかない。
今村由男氏、土屋智恵さんのいつものメンバーで 新展開ができるか・・
小品20余点の新作を展示します。色面による抽象的な主張のもの、具体的なモチーフを連想されるもの、それから花も去年くらいから手掛けています。
今年は1つの展示室に1作家という形にするそうです。ご期待ください。

2017年4月11日火曜日

Akio Hanafujiとチアパスの画家たち展

いよいよ上記展覧会が開催される。それは私にとり一入な思いですが、まずはこの展覧会を説明します。
”榎本移民120周年を記念して”と格調高く謳い上げているサブタイトルですが 恥ずかしながら私はそのエピソードは知りませんでした。この主催団体代表であり評論家の赤津侃氏によると メキシコの南部にあるチアパスというところは120年前に 明治の政治家榎本武揚による植民があり それがかの地との交流の第一歩であったそうです。
メキシコ・チアパスは近代化と古代マヤ、アステカ文明が混在して 複雑な現代を形成しているようです。そこに45年の暮らす画家花藤氏と留学経験のあるの渡邊久美子さん(この主催団体会長)が既知の友で交流が続き 2年前は「和の心とかたち展」がチアパスの美術館で開催されたのです。私も誘っていただいたが諸事情で作品のみ参加でした。20人近くの日本人作家が当地を訪れ交流を深めあったようです。ーー行きたかった!
そして今度はメキシコの作家たちが日本で展覧会をする運びとなったのです。・・しかし公的な支援は 実に残念ながら日本にはなくて(受けるのがとても困難という意味)四苦八苦となったのです。
昨年秋 韓国珍島で開かれた韓中日美術展に私は参加したが なんと!珍島芸術という組織が全員を招待してくれたのだ!!。帰りの飛行機の中で 知り合った韓国や中国の作家たちを日本にも招待して交流展をしたいとつくづく思ったものだが、日本はそういうところは ほんとにケチで残念だ・・・。
さて、メキシコの方は、チアパス州が支援してくれたりして何とか開催にこぎつけることができた。
そんな中 いくつかの財団の助成金をもらえる可能性があるというので、私たちは手分けして書類作成に奔走した。結果朝日新聞財団から助成を受けることができ、この開催の手助けとなったのだ。私はなれない申請に苦労したので ちょっとばかり うれしさ倍増なのだ。皆さんにぜひとも見に来ていただきたい。
あ、あとは自分の作品だ!

2017年3月26日日曜日

野田哲也展in飯田

野田哲也という作家のコレクターがここ飯田にいるとは知らなかった。版画家北野敏美氏の友人がいっぱい持っていたようで 今回そのコレクション展が開催された。そして驚いた。若い頃よく見て ちょっと気にかかっていた作品群だったのだ。
結婚式の家族写真を白抜きにして人物に名前を記した記録物のような作品だった。そこには情感などなく空っぽの感じで 当時の私は面食らった。そうか、これがヨーロッパで賞を受けた作品なのか・・・
一生懸命作品の内なる意味を見出そうとした思い出がある。
池田満寿夫と同時代の版画家で結構ヒーローだった人なのだ。
芸大浪人だった当時の私には 「芸大を3浪しても入れなかった池田満寿夫がベネツィアで大賞を取った後 芸大に講演に呼ばれ 喜んで行った。」という逸話が聞こえてきてなぜか留飲を下げた思い出がある。しかしその当時そこの芸大で助教授をしていたのが野田氏ということのようだった。今から思えば版画の分野は結構国際化が進んでいたんだな。
さて、野田氏本人の語ってくれたトークショウはとても面白く笑ってしまった。巧みな話し手であった。しかし 昔感じたあの空っぽな不思議感はなくて ほんとに何もないのかも、とも感じてしまった。日記(記録)として放り出された作品の冷たさが魅力なのか・・・。
4月1日加筆ーー
空っぽな不思議観について 若い頃はあまり理解できなかったが、このごろ(40年を経て)少しわかった気がしてきたので それを書いてみます。
海辺で佇む父と幼い娘のシルエット写真を基にしたシルクスクリーン作品を思い出して;写真の風景は海以外は白く切り取られていた。人間の孤独というか寂しさという感じが伝わってきたけど、それ以上に人に対する空虚さ、作品つくりに対する関りの薄さが気になっていた。写真を使うという手法がそう強く感じさせたのだ。あの頃はまだまだパソコンなんかなく もちろん携帯もない。デジタル社会の到来さえ予想できない社会だった。ベトナム戦争が終わり 連合赤軍が世の中を騒がせていた熱い時代だ。人の尊厳みたいなものが 数値で語られる世の中の到来を予感させていたのであろうか?激しい時代の終焉を 無意識のうちに表現していたのだろう。--

2017年3月18日土曜日

創画会70th飯田会場展

地元飯田市出身者と日本画の創画会とは関係が深いらしい。今日から飯田美術博物館にて創画会展が始まった。もちろん館の館長は滝沢具幸画伯でこの開催の肝いりであることは想像に難くない。それから宮島弘道氏は地元でもファンの多い若手のホープだ。彼が評価されてきたころ ほんとに僕たち地元絵描きたちも喜んだものだ。なぜなら彼の絵は結構斬新で京都趣味とは遠く離れていたからだ。・・・日本画も捨てたもんじゃないな・・なんて思わせてくれた。
さて、関係性の話になるが70年前創画会を立ち上げたとき 「みずえ」とか「アトリエ」という美術雑誌の記者で飯田出身の方が(藤本氏と言ったかな?)創立メンバーに協力されたらしい。その頃の写真も展示されていたがなんとも甘ーい時代感が出ていた。
甘ーいとは 何と言ったらいいんだろうか?昭和30年代ころの誰もが一途で 明るい未来が必ず来ることを信じていたような・・・でも実際はまだまだ貧しく 戦前の名残もありつつ 着ている開襟シャツ風の白だけがまぶしい白黒の時代!
あーこの頃 若いアーチストが集まって 世界を変えていくんだとマジで感じて新しいアート集団を作っていくんだった。羨ましい!・・・
今はただただ忙しく 世界を自分たちが変えていくんだなんて 微塵も微塵も考えることなく どこかのルールで生かされているようなーー この実感。
もう 入選とかある美術団体は どうなんだろうか? いや それよりもっと今の社会は どうなんだろうか? そこを考えていくべきだ。

2017年2月21日火曜日

初日の創造展

 現代の創造展としては17回、コンテンポラリーが立ち上がってからは5年目となったこの展覧会だが 大分 古い体質が改まってきたようにも思えてうれしい。
さて、ジャンルについて今回考えてみたい。
例えば日本画と洋画は 何が違うんだろう?
私は昨年韓国の展覧会では日本画としての出品だった。もっと前は豊橋の日本画展に出品したこともある。自分としては日本画でありたいとは思ったことはない。実際は現代の1日本人が描いている絵でしかないし この展覧会ではコンテンポラリーのジャンルだ。
今回のこの展覧会では日本画部門でも 洋画部門でも 工芸部門でも コンテンポラリー部門に展示しても全く違和感のないものが出てきた。(例えばボールペン画など)数年前の選考会では考えられなかった。展示もかなり自由な感じになってきて息ができる。これがもっと自由になってくれば、コンテンポラリー部門なんてあえて存在しなくたっていいのだ。
日本画と洋画も違いも 同様にそうあるわけでもないから分けなくともいいが・・・。
「日本語が歴然と存在するように日本人独自の感性はある。それを守っていかなくてはいけない」という主張がある。日本画ジャンルがあるべきだという主張の根拠だ。
しかし それは抽象画の私が日本画だと言ってもいいことと同じだと感じる。要は日本人が描けば日本画だろう。
ただ、それぞれの時代の生き方(価値観)の違いによるものの見方は違う。中世は神について切り離せない世界観を持っているから絵もそのように神とその信仰が描かれる。近代はそこからの脱却だ。現実世界が大事なのだ。分析的にもなし、3次元の表現も大事となる。私はデッサンばかりしていた浪人時代直後 イタリア、アッシジのジオットを初めてみたとき、その平面的表現に戸惑ってしまった。しかし今はあの空を描いた青の澄んだ感じにはとても深いすがすがしさを感じる。
見る側が 描いた世界にピントを合わせないと見えてこないのだ。
また、私は高校に入ったころ ゴッホをあまり理解できなかった。文学的なストーリーを聞くたびに理解を拒否していたように思う。でも、人間の心の弱さとか優しさとかを考えたりするようになって目が開けた。なんと素晴らしい画家だったんだと。
やはり 見る人間の心に目が育たないと見えてこないのだ。そして絵はその見る人の変化を捉えてくれる。----そこがアートのアートの由縁だ。
見る側の人は見慣れている絵から ちょっと考え方の地平が変化すると「わからない!」と口にしてしまう。だが近代の勉強法しかしていなかった浪人時代の私がジオットに出合ったように、またゴッホの心に触れたように、自分の中の視点が変わる時がある。
平面的だった中世の絵は神と自分の2次元なのだから解釈は正解なのだ。その手法の生まれてきた必然性は歴然としてあるんだ。
近代の絵が立体的なのは現実を何としてでも把握しなければならなかったからで リアリストであるのは当たり前、アカデミックな表現はこのあたりの哲学であろう。
そして現代は 戦争やマネー経済を経験して そのエゲツナキ現実を乗り越えたいのだ。それがコンテンポラリーのテーマと言える。
この時代性は 現代を生きている我々の心中に比率は異なっているが 多かれ少なかれ持っているのだ。①宗教的なもの(=日本画の平面的にまたは色面で描くことにより見る人の精神にうったえる手法)、②現実生活=洋画などで立体的に描く手法、上手い下手の評価がよくされるのでわかりやすい、③そしてその問題意識(=現代画、現実を写す表現から抜け出し 自由な表現を試る。③-❶初期のそれは 自身の心情をいかに画面に表現するかというテーマのため表現主義になったり、画面構成的になったりといろいろだが 重い表現が多い。たぶん今の多くの出展油絵作家たちはこの範疇にいるかな・・。現代の創造展はここらあたりを洋画部門とコンテンポラリー部門の境界にしているので息苦しいような過重感があるのは洋画部門だ。ーー失礼ーー。
③-❷いまの若い表現者たちはもっとアッサリしていて自我の表現を消し去ろうとしたり 別角度で試みようとしている。ヌメーッとした自我意識の虜から抜け出したいのだ。
そこのところを表現する美術(カッコ内で説明したが)は 全く便宜的に、形式的に、手法的に 分けて日本画①、洋画②と③-❶、コンテンポラリー③-❷として鑑賞できるのではないか。・・・しかしながら この展覧会で描かれている内容はみな現代画(=③)とも言えそう:ゆえに「現代の創造展」。
と考えてみた。









2017年2月18日土曜日

第17回現代の創造展

もう17回となる現代の創造展、地元の下伊那、飯田では最大の美術総合展である。今年も150人もの参加作家を得 明日からオープンとなる。
私たちの世代がいよいよ中心となって運営していく組織となってきた。一昔前の権威主義もだいぶ薄れてきたと思うが まだまだ自由な雰囲気の展覧会にはなっていない。それには 初心者層への指導が未だに師匠の弟子への教え的であるかもしれません。ある段階で対等の人間同士というリスペクトの関係が生まれないまま 形だけが生き続けてしまう。
この展覧会はそんな関係を引きずったものを早く断ち切っていきたいと私は願っている。

2017年2月7日火曜日

久しぶりの墓参

以前にも書いたことがあるが イタリア時代の絵の友人でしばらく前に亡くなった奴がいる。何と表現していいのか・・とにかく戦うことの嫌いな彼だった。だからだろうか彼はとても周りから好かれていたし 私もその一人だった。不思議なくらい人とは競わないから、最初会ったころは「どうやって生きていくんだろう」と不思議でならなかった。
ギター好きで、酒好きで、お人好し、彼のペルージアのアパートはいつも人でにぎやかだった。(日本人ばかりで 彼はなかなかイタリア語が上手くならなかった。)
やがて仕送りが終わり 日本に戻ってきた彼は だんだん悲しい運命に引き寄せられていった。夢のようなイタリアでの暮らしから 日本の厳しい現実の暮らしへの変換は 競う心を持ちたがらない彼には 苦しみを募らせずにはいられなかった。酒に癒しを求めた。写真はそのころ描いた彼の絵、心の痛みが伝わる・・・
私は飯田に住み、彼は佐倉だったので そう頻繁には会えなかったが よく日曜の夜 遅い時間に電話がかかってきたものだ。「また飲もう。」と言って切ったが長い電話はいつも酔っていたのであろう。もう一歩がんばれと周りは言ったが 最後は肝硬変で逝ってしまった。
確かに「弱い」と一言で言ってしまえばそれまでだが 我々日本の社会がだんだん人間を狭量にしていることにも気づき 手を打つべきだ。引きこもりや自殺は寛容さが社会にないからだ。一つの価値観で人を篩いにかけ ある意味の差別をしているではないか・・。
墓石を前に彼の葬式のことを思い出した。家族は密葬にする予定であったが 大変な数(20~30人)の友人が通夜から押しかけ、あげく家に容れきれなくなった。しかたなく彼の行きつけの飲み屋さんに行き 朝まで飲み、彼を偲んだのだった。
世には立派な葬式がたくさんあるだろうが あんな心のこもった葬式はほかになかったなと思い出し、ある意味幸せな人生だったのかもしれないと 今は言える。
墓石には平成14年1月16日没とあった。そうかもう15年なのか・・・合掌



2017年1月29日日曜日

大学受験の季節

もうとっくにこの感覚は忘れていた。そんな折 高校時代の美術班2年先輩の展覧会(陶芸家の奥様と二人展)があった。高1の時 私はその先輩の絵を長野県展で見て「あゝいい絵だな」と印象があったので、その後どうされているのか 気になっていた。
 複雑な想いが残ったと言っていいのだろうか、彼は(私も同じように歩んだが)芸大浪人を何年も苦しみ その後心機一転教育者として成功をおさめられたのだった。今は陶芸を楽しみながら奥様のアートを応援しているようであった。
 --- [過去のことを忘れることがあっても、「今」ある私は過去の積み重ね これからの人生は、「今」という瞬間の積み重ね そして、「今」の生き方はこれからの人生を変える力を持っている]---
このようにチラシには書かれていた。 
会場一部に飾られていた十数枚の石膏デッサンは十代後半から二十歳頃に描かれたもので素晴らしいできのものだった。おそらく当時の予備校のポスターになったであろうくらいの作品群だ。・・・正直 私はあの頃の先の見えない 寄る辺のない芸大受験生の暮らしを思い出さずにはいられなかった。忘れていた疼きだった。
高校のころ見た才能は 並々ならぬ努力を経てこれらのデッサンになっていたのであろう。・・・
ただ 私はあのころ考えていた。「このようなデッサンの勉強が自分のアートの道にどう繋がっていくのだろうか」と。そして 私をしてイタリアに行かせた。デッサンの達人の次はどうなるのか?その頃の芸大にどうみても答えはなかったのだ。
彼は達人となったが、運も悪かった。病気で受験生を続けることもできず、絵描きの道を 一先ず断念した。(先輩はその後その深い体験を糧に 素晴らしい教育者となられたことには 敬意を示さずにはいられないし、これからその道に再び向かうかもしれない。)
あのころ、たしか3000人の受験生がいて 合格は40人だったかな。運の悪い人も出てきてもおかしくない・・・
あの時 俺たちは、 ほんとは権威主義からもっともっと自由になって、美術をもっと広く捉えているべきだった。そうすれば若い感性はアートをもっと人間や社会に結び付け考えることができ いい作家がもっとたくさん誕生しただろう。修行を経なければたどり着けない道だけがアートじゃないと思うし 優しさは暮らしの些細な中にもあるはずだ。一般の人ももっと美術が生活の中に入って 今の不寛容な社会を変えたかもしれない。そう出来得なかったのだ。
あの45年前に見た優しい感じの絵が 復活すると信じる。


2017年1月13日金曜日

雪中に仕事部屋にとどまる

二~三日前から天気予報が怪しくなってきたと思ったら 今日は雪だ。去年の11月の終わりに降ってから ずっと天気が良かったのになんとも残念なことになってきた。
娘は明日がセンター試験なのでひと際ボヤいていた。どうもこの降り方では積もるかもしれないな。
実は私も 赤津侃氏企画による第2回「絵画と平面の現代と未来展」に参加のため 明日銀座に向かう予定だった。しかしこれでは行かないことが正しい。
去年もこの時期 銀座のグループ展に参加していて 雪に混乱させられた。
会期の早朝 中央高速バスのバス停で絵を抱えて待っていると 雪がだんだん強くなってきた。天気予報は山梨方面山地が雪になるだろうとのことであったが まさか中央高速が不通になるなんて考えもしなかった。バス会社の方がわざわざバス停まで来てそのことを待っている私たちに告げたのだった。
その展覧会の私のスペースは空っぽだ。何としてでも行かなくてはならない・・・
車で諏訪まで行ってその後電車という手を考えたが 途中で電車も不通になったというニュースをきいた。むー・・
しかたなく飯田のバスセンターに引き返すと名古屋行のバスはまだ動いているという。そうだ、新幹線でいこう。そうして、バスに飛び乗り 何とか見通しをつけたのだった。バスの中から家に電話をすると 妻が「いったいどこにいるの!?」とびっくりしていた。幸い昼過ぎにギャラリーについて事なきをえたが 一体いくらかかっただろうか・・・
そんな経験から 明日はストーブを抱え 仕事部屋で 絵を描くことにした。予定通り着くかわからぬが 絵は宅急便で送ってしまおう。

2017年1月8日日曜日

第4回若造展を見る

明けましておめでとうございます。本年の初ページでございます。
一昨日より長野県飯田創造館にて首記展覧会が開催され 見に行ってきました。この近辺(伊那谷南部)にゆかりある20代 30代が中心になった作品展で私はとても気にしている企画の展覧会です。というのも実社会でもそうですが 50~60歳ころを境にシキタリのようなもの(方法論?)が途切れているように思うからです。
絵の世界では昔からテーマのようにとらえている「芸術」を大それたものと避けて イラスト的な入口で作品を制作し なかなか本質論に入って行きたがらないように思える。 私としてはもどかしい。・・・
確かに大人たちの作品はいかにも芸術に向き合っているようにしているが なんか空虚な重苦しさだけではないか・・・とも言えなくもない。 そんなわけでこのあたりの問題をフレッシュな作家たちがどう展開しどう深堀りしようとしているのか とても興味深いというわけである。
上記の流れで特に注目していた正村とも奈さんが 昨年の秋遅く突然自死されたと聞いた。 おおきなショックを受けた。
作品の特別コーナーが設けられ遺作、スケッチブックなどが展示されていた。
「どうして?」の問いからそれらを長く見入ってしまった。彼女の才能を深く感じ入ったが、なぜ?の答えなど私にわかるわけもない。
感受性はとても豊かで 若々しいかわいらしさやユーモアもあった。・・・なのになぜ?
キーンホルツという作家が好きだと言っていたが その中には怖い怖いサイコ的なものがある。そんな共鳴があったのだろうか?
冥福を祈る。合唱。