2017年1月29日日曜日

大学受験の季節

もうとっくにこの感覚は忘れていた。そんな折 高校時代の美術班2年先輩の展覧会(陶芸家の奥様と二人展)があった。高1の時 私はその先輩の絵を長野県展で見て「あゝいい絵だな」と印象があったので、その後どうされているのか 気になっていた。
 複雑な想いが残ったと言っていいのだろうか、彼は(私も同じように歩んだが)芸大浪人を何年も苦しみ その後心機一転教育者として成功をおさめられたのだった。今は陶芸を楽しみながら奥様のアートを応援しているようであった。
 --- [過去のことを忘れることがあっても、「今」ある私は過去の積み重ね これからの人生は、「今」という瞬間の積み重ね そして、「今」の生き方はこれからの人生を変える力を持っている]---
このようにチラシには書かれていた。 
会場一部に飾られていた十数枚の石膏デッサンは十代後半から二十歳頃に描かれたもので素晴らしいできのものだった。おそらく当時の予備校のポスターになったであろうくらいの作品群だ。・・・正直 私はあの頃の先の見えない 寄る辺のない芸大受験生の暮らしを思い出さずにはいられなかった。忘れていた疼きだった。
高校のころ見た才能は 並々ならぬ努力を経てこれらのデッサンになっていたのであろう。・・・
ただ 私はあのころ考えていた。「このようなデッサンの勉強が自分のアートの道にどう繋がっていくのだろうか」と。そして 私をしてイタリアに行かせた。デッサンの達人の次はどうなるのか?その頃の芸大にどうみても答えはなかったのだ。
彼は達人となったが、運も悪かった。病気で受験生を続けることもできず、絵描きの道を 一先ず断念した。(先輩はその後その深い体験を糧に 素晴らしい教育者となられたことには 敬意を示さずにはいられないし、これからその道に再び向かうかもしれない。)
あのころ、たしか3000人の受験生がいて 合格は40人だったかな。運の悪い人も出てきてもおかしくない・・・
あの時 俺たちは、 ほんとは権威主義からもっともっと自由になって、美術をもっと広く捉えているべきだった。そうすれば若い感性はアートをもっと人間や社会に結び付け考えることができ いい作家がもっとたくさん誕生しただろう。修行を経なければたどり着けない道だけがアートじゃないと思うし 優しさは暮らしの些細な中にもあるはずだ。一般の人ももっと美術が生活の中に入って 今の不寛容な社会を変えたかもしれない。そう出来得なかったのだ。
あの45年前に見た優しい感じの絵が 復活すると信じる。


2017年1月13日金曜日

雪中に仕事部屋にとどまる

二~三日前から天気予報が怪しくなってきたと思ったら 今日は雪だ。去年の11月の終わりに降ってから ずっと天気が良かったのになんとも残念なことになってきた。
娘は明日がセンター試験なのでひと際ボヤいていた。どうもこの降り方では積もるかもしれないな。
実は私も 赤津侃氏企画による第2回「絵画と平面の現代と未来展」に参加のため 明日銀座に向かう予定だった。しかしこれでは行かないことが正しい。
去年もこの時期 銀座のグループ展に参加していて 雪に混乱させられた。
会期の早朝 中央高速バスのバス停で絵を抱えて待っていると 雪がだんだん強くなってきた。天気予報は山梨方面山地が雪になるだろうとのことであったが まさか中央高速が不通になるなんて考えもしなかった。バス会社の方がわざわざバス停まで来てそのことを待っている私たちに告げたのだった。
その展覧会の私のスペースは空っぽだ。何としてでも行かなくてはならない・・・
車で諏訪まで行ってその後電車という手を考えたが 途中で電車も不通になったというニュースをきいた。むー・・
しかたなく飯田のバスセンターに引き返すと名古屋行のバスはまだ動いているという。そうだ、新幹線でいこう。そうして、バスに飛び乗り 何とか見通しをつけたのだった。バスの中から家に電話をすると 妻が「いったいどこにいるの!?」とびっくりしていた。幸い昼過ぎにギャラリーについて事なきをえたが 一体いくらかかっただろうか・・・
そんな経験から 明日はストーブを抱え 仕事部屋で 絵を描くことにした。予定通り着くかわからぬが 絵は宅急便で送ってしまおう。

2017年1月8日日曜日

第4回若造展を見る

明けましておめでとうございます。本年の初ページでございます。
一昨日より長野県飯田創造館にて首記展覧会が開催され 見に行ってきました。この近辺(伊那谷南部)にゆかりある20代 30代が中心になった作品展で私はとても気にしている企画の展覧会です。というのも実社会でもそうですが 50~60歳ころを境にシキタリのようなもの(方法論?)が途切れているように思うからです。
絵の世界では昔からテーマのようにとらえている「芸術」を大それたものと避けて イラスト的な入口で作品を制作し なかなか本質論に入って行きたがらないように思える。 私としてはもどかしい。・・・
確かに大人たちの作品はいかにも芸術に向き合っているようにしているが なんか空虚な重苦しさだけではないか・・・とも言えなくもない。 そんなわけでこのあたりの問題をフレッシュな作家たちがどう展開しどう深堀りしようとしているのか とても興味深いというわけである。
上記の流れで特に注目していた正村とも奈さんが 昨年の秋遅く突然自死されたと聞いた。 おおきなショックを受けた。
作品の特別コーナーが設けられ遺作、スケッチブックなどが展示されていた。
「どうして?」の問いからそれらを長く見入ってしまった。彼女の才能を深く感じ入ったが、なぜ?の答えなど私にわかるわけもない。
感受性はとても豊かで 若々しいかわいらしさやユーモアもあった。・・・なのになぜ?
キーンホルツという作家が好きだと言っていたが その中には怖い怖いサイコ的なものがある。そんな共鳴があったのだろうか?
冥福を祈る。合唱。