2017年7月19日水曜日

ドロ―イングと奈良美智

ポストモダンの概念を考えていた矢先に、いいタイミングでいい展覧会を見ることができた。僕は名古屋で個展開催中だったので合間に行ってみることができたのだ。
正直言って 子供の不機嫌な顔ばかりのイラストのような作品にはいまいち理解できなかったところだが 名古屋ではかなりの人気でびっくりしてしまった。「かわいい!」とよく聞く。
さてさて、オープン2日目の朝一で豊田美術館の駐車場に入ってみると 地元はもちろん仙台、石川、多摩、山口・・と様々のナンバーの車がもう七割がたいっぱいになっていた。そして美術館の入り口に向かえば まだ10時前なのにもうかなりの行列だった。
中に入ると 展示は自ら手掛けたようでゆったりとしていてユニークだった。
1988年から1991年ころの彼の初期作品を私は初めてみた。それはとても新鮮な驚きだった。ドローイングにそのよさがひと際出ているように感じた。バスキアのような落書き的な表現で、でも日本人的な繊細さと柔らかさ、そして日記のような(もっと言えば下着のような)感覚を出している。一緒に行った友人は『女々しさ』の公的化といった言い方をしていた。僕もあの頃(浪人の頃)絵に日ごろのちょっとした感情の表現を入れられないかなーと思ったことがあった。ごちゃごちゃスケッチブックに文やら線を書き連ねた記憶がある。でもそこの次元と絵の次元を同化することはできなかったし 思いもよらなかった。丸めて捨てる落書きでしかなかった。
その次元をアートまで引き上げた奈良美智はやはりすばらしい、と深く感じた。
ただ、この個人的な感傷の詩情は青春の1ページとして理解できるが、その次は?と問いは投げかけられたままと言っていい。・・のではないだろうか。
いや、あのドローイングをもっともっと展開してほしい、子供の顔ではなくて。 

2017年7月10日月曜日

ポストモダンって?

ポストモダンという言葉がある。正確には理解してないが、封建社会から民主主義の近代化を成し遂げた社会の文化の底流にある、その理性中心主義、機能主義、理想優先に対し、そうではない人間の矛盾や 人間的な感情、ユーモアを優位に扱おうとしている文化的動き、と考える。たぶん具体的には建築やファッションなんかで主に使われている言葉のようだ。この概念は僕の言うコンテンポラリーの考え方の中に入ってくると思う。
一方で トランスアバンギャルドという言葉もあった。ちょうど僕がアカデミアを出るころ盛んに使われていた言葉で アバンギャルドの表現者たちのあまりに難しい概念や観念主義に陥らずもっと生の人間の感情を表現に入れていこうとするものだったかなと思う。この流れも反モダンの第一波ミニマリズムなんかの反動で 大きくコンテンポラリー内と言えると思う。僕が80年代感じていた禁欲主義に疲れた感じを癒してくれたのは ちょっとした豊かさと ゆるい前向きさだった。田中康夫のクリスタルは嫌味であったが 後に長野県の知事になる頃に言っていた民主主義は考え方のちょっとした柔軟さで とても身近に実践できるものと思えた。

いま名古屋のギャラリー芽楽で開催中の個展に若い陶芸家が訪れ話す機会を持った。「林さんは高校の頃から絵描き志望だったのですか?」と。
確かにそうだ。僕はあのころからずっとそう思っていたのだ。そしてその数年後から そのコンテンポラリーの雲のような思想に引きずられて絵を描いているのだ。
ぼくは解らないなりにコンテンポラリーが進むべき道を言葉にもしていきたいと思う。

2017年7月6日木曜日

ニューヨークのコンテンポラリー文化について

ニューヨークのコンテンポラリー文化にあこがれを持ち、その残り香のようなものをかすかに追い求めてきたように 自分を思う。前のブログで一柳彗や草間彌生について考えているうちにちょっと自分の立ち位置を考えてみたく思った。
田舎育ちの若者であった当時の私には サイケデリックな文化も少し年上の人たちのものだったし、エキセントリックな演劇やらハプニングもやたら怪しくて 遠巻きに眺めているに過ぎなかった。観念アートも何やら暗く難しくて中には入っていっけなかった。ただ、ジャスパージョーンズやラウシェンバーグの絵にはなぜかとても惹かれていた。また、ジャズは好きで72~3年ころはよく渋谷のジニアスというジャズ喫茶には通っていた。
芸大浪人が重くのしかかる頃になると 友人と「軽みの会」とか言いながら やたらと社会権威に反抗して粋がってもいた。ささやかなカウンターカルチャーの体現だったかもしれない。精神的には 私も一端のアンダーグラウンダーになっていたのかも。赤瀬川氏が活躍していたころか。
70年代後半はやたらと街がきれいになっていった。横浜駅の地下街ができていって 私自身はとても場違いな気分にさせられた。広場にはファッショナブルな女性の彫刻が飾られた。このころ一柳氏の言うコンテンポラリー文化のパトロンが登場していったのだろう。
このアートの商業化の流れは コンテンポラリーのポップな面が大きくクローズアップされた。ポスターがアートとなり グラフィティアートが偉大になっていった。ファッションもアートとなった。
私がイタリアから帰ったころ 日本のテレビでは アンディーウォーホルが「おいしい生活」を高らかに宣言していた。
たぶん、80年半ばころが日本でコンテンポラリー文化の花が咲いていたころだっただろう。バブルの頃とも重なっていた。
ここで 私の疑問は その文化がポップなところだけ調子に乗っていて、もう一方の反権威で 自由で 知的なアートが奇形していったことだ。
ポップな表面的な綺麗さ カッコよさ 可愛さ 軽さがエネルギーを持って行ったけど 取り残されたもうちょっと本質的な自由な生き方を志向するアートはどうなってしまったのだろう。私には無視されたか 存在さえ気づかれなかったように思う。
コンテンポラリーの手法は様々な展覧会や個展などでも見るが 単なる個人の感性の表現に留まってしまって かつての大いなる野望すなわち自由な生き方を貫くのだという主張は薄められ ないに等しい。
私が 赤土を使って描く絵は 単なる変種の洋画では 決してないのだが、そこの主張はまだまだ届かないのだろうか。
なぜだろう。



2017年7月4日火曜日

アートは 自由な挑戦という

コンテンポラリーというジャンルは社会的に定着しているのか?
なかなか影が薄い言葉のようですが 文化面ではある程度の世界は出来上がっているかもしれない。
極々一般社会では もっともっとアピールしていかなくてはいけない状況かなと感じ始めてます。
朝日新聞に現代音楽では有名な一柳慧(84歳)さんの「語り」がこのところ出ていて楽しみに読んでいる。----------
若い世代にとって、自由な挑戦がやりにくい時代のなったなと感じているんです。私たちの時代は戦争の影が濃くて 未来が見えず、これからの社会の形もはっきりしなかったので、逆に束縛なく社会に突き進むことができました。
1970年代後半あたりから社会に形が整えられていき、芸術の社会も商業主義という社会の枠組みから逃れられなくなってきた。でも、そうした時代には、よきパトロンの矜持が私たちの実験を名実ともに支えてくれました。≪いけばな草月流の創始者勅使河原蒼風は現代芸術への支援を惜しまなかった。――中略――セゾングループの代表堤清二氏がセゾン美術館を率いた≫―――中略―――
堤さんも世を去り、アートと社会を結んでくれる人も少なくなりました。それでも自分なりに道を見つけ歩き始める若者がいる。ならば、やっぱり光を当ててあげたいと思うんです。--------
一昨年から自腹で、コンテンポラリー賞を作曲家、演奏家、評論家ら、孤立しがちな現代音楽の現場を横断的に結ぶ人たちに光を当てるため創設したそうである。
私は一柳さんより20歳若いので、彼の20代30代の華々しい活躍の時を知らない。ただその文化の残り香だけを吸ってきた。そしていまなんとも言えぬ閉塞感を感じている。
また私達より20歳以上若い人たちは自由な挑戦さえ知らないかもしれない。・・・
いや、もしかしてコンピューターのなかの世界が自由な空間なのだろうか??